脳が
どこかに・・・
救急病院からリハビリ病院へ
『プリント』は、それから毎日つづいた。
内容は5点のイラストと、正しい名前とを結ぶ。
結べたら正しい名前をそれぞれ3つずつ書く。
まあ、小学生の宿題みたいなものだ。
と、思っていた。
だけどそれは決して小学生のための『プリント』ではなかった。
たとえば、“麻雀をするおじさん”のイラスト。
ごていねいにタバコをくわえていたりする。
あるいは“ビール”。
ジョッキになみなみと注がれ、
泡があふれていたりする(ゴクッ)。
初日に出たウイスキーだってそうだ。
そう。
それは大人のための『プリント』だった。
大人が、なにか病気をしてその回復にあたる。
そのための『プリント』。
そう考えると『作者』の、
あるいは言語聴覚療法士の意図がわかる。
回復の第一歩は
「イラストを理解する」こと。
その「名前を認識する」こと。
認識したらそれを「書くこと」。
幸いなことに私はイラストと、
正しい名前を線で結ぶことはできた。
むしろ得意だった。
退院まで12枚の記録があるが、
すべて正解。
満点である。
だが先生はそれで許してはくれなかった。
たとえば『杖』である。
初日につまずいた『杖』。
そのとき先生はすぐに“折ったA4”を開いて正解を教えてくれた。
しかし3日目になるとハードルが上がる。
先生は“折ったA4”を開くことなく言うのだ。
「じゃ書いてみましょう」
イラストと、その名前とを線で結ぶ。
それは得意だった。
わからない名前があったとしても
消去法で突き止め、
ごまかすことができた。
だがイラストだけを見せられて、
その名前が書けるのか。
書けなかった。
いや名前はわかる。
たとえば3日目(12月7日)のイラスト。
「机」「お茶」「野球」「梅」「鉛筆」
わかった。
5つとも認識した。
だから書ける(はずだ)。
まず「机」はオッケー。
「お茶」も書けた。
だけど・・・
「野球」の“野”が書けない。
字の左側がどうなっているのか。
思い出せない。
右側はこんな感じか、とかいって書ける。
でも左側は・・・。
なんだっけ。
まったく思い出せない。
あるいは「梅」。
左側の“木偏”はわかる。
さて右側は・・・。
やはり小学生・・・いやそれ以下だった。
『プリント』との格闘。
それは私を悩ませることとなる。
いや、
「悩ませる」は言い過ぎかも知れない。
むしろ“確認”である。
いま自分がいる位置の確認。
なにが失われ、
なにができないのか。
脳の機能のなかでなにが残っていて、
なにができるのか。
できないことが多すぎた。
だから結局、「悩む」ことにはなるのだが。
そういえばもうひとつ、
確認すべきことがあった。
「自分の名前」である。
自分の名前が書けるか。
それも大切な“確認”事項だった。
“認識”という点からいえばクリアしていた。
だが“書く”という点では、未だ心もとなかった。
だがリハビリは日を追うごとに進化(!)していった。
“名前”に加えて“今日の日付”。
それに“生年月日”が加わった。
さらには“住所”である。
たとえば12月8日の記録がある。
岡 孝司
正確に書けたのはそれだけだ。
他は全部、先生の“赤”がはいっている。
そこで“赤”を外したらどうなるか。
__かたかし
__和33年2月9日
__成28年12月 日
__京都 世__谷__
__沢・・・
うそだと思うだろう。
“文頭”が見事になくなっている。
何かの間違いだ。
そう思うだろう。
私もそう思った。
昭和の“昭”も、平成の“平”も、東京の“東”も出てこない。
駒沢の“駒”も・・・。
いや、まいった。
文頭が出てこない。
この状態はつづいた。
救急病院を退院するまで、つづいた。
最も出てこなかったのは平成の“平”だった。
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さて『日赤医療センター』での“記録”はこのあたりで終えようと思う。
というのも日々変わり映えせず、
あまりのボケっぷりに読者の皆さんも退屈だろう、と(笑)。
2016年(平成28年)12月20日。
退院。
いよいよリハビリに本格的に取り組む病院へ移る。
転院先は『原宿リハビリテーション病院』であった。