脳が
どこかに・・・
まけてたまるかっ
日曜の朝は、ラジオで始まります。
午前5時台に“文化放送”で放送される宗教の時間。
“禅宗”“キリスト教”“浄土真宗”・・・
実を言うと私は無宗教です。
強いて挙げれば“祖先教”。
私は“祖先の存在”によって存在している。
それだけが確かなこと。
でも、だからこそ、どんな番組にも耳を傾けられる。
ある日、“ありがとう”の意味を説いた番組がありました。
“ありがとう”は“有り難い”こと。
たとえば人間として生まれたこと。
それが“有り難い”。
病気になっても生きていられる。
それもじつは“有り難い”。
脳出血では亡くなる方もいる。
なのに生きていられる。
それどころかリハビリで回復しつつある。
それも“有り難い”。
つまり“ありがとう”・・・
そして“ありがとう”の反対語は
“あたりまえ”・・・
午前7時になると落語が始まります。
『志の輔ラジオ・落語でデート』。
つい最近“4代目・鈴々舎馬風”が紹介されました。
●
(ここからはラジオを聞いて書いた文章です)
(音源は1963年5月)
呂律はまだ、うまく回っていない。
だけど彼は高座に復帰した。
彼は脳卒中で倒れた。
1960年のことである。
だが3年後、リハビリの末、復帰。
その最初の演目がラジオで紹介された。
『病院日誌』。
入院中、看護師や医者のあれこれを風刺した新作落語である。
あぁ、落語家でも復活した人がいる。
でも失語症の克服、たいへんだっただろうな・・・
落語をたのしむことより、
彼の病状が気になった。
私は・・・と、思った。
私はまだ遠い。
ライターとしての復帰、復活はまだまだ遠い。
でも焦らない。けっして焦らない。
『病院日誌』のなかで、“馬風”が言った。
「俺は思ったね。なんで馬風がこんな苦しい目に遭わなきゃいけねえんだい。なぜなんだいって・・・。しかし天は見放さなかったねえ。俺を! 志ん生がひっくり返ったと聞いたときのあの嬉しさ!」 (Wikipediaより)
志ん生。
5代目・古今亭志ん生。
“馬風”が倒れて1年後、
1961年、口演中に脳出血で倒れる。
3カ月の昏睡状態。
だが、彼も高座に復帰。
ただし、半身不随。
講談で使用する釈台を使い、
釈台に左手を置いて高座を務めた。(Wikipediaより)
脳出血はこわい病気だ。
意識が戻っても、身体はもとに戻らない。
そういう人がたくさんいる。
だけど、それでも人は復帰する。
いや、復帰したいと願う。
その日、
私はラジオから勇気をもらった。
落語会には(少なくとも)ふたり、
脳出血から復帰したひとがいた、と。
ただ、ふたりとも復帰はしたものの、
“復活”ではなかった。
残念ながら以前のように言葉を、
身体を操ることはできなかった。
でも・・・
私は思った。
彼らはきっと思っていた。
そして私も、思っている。
(まけてたまるかっ)
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2020年5月29日。金曜日。
このウェブサイトの、“ひとつめの”コンテンツが終わります。
これは私の“記録”として、
“備忘録”として残したい。
そう思ってウェブサイトをつくりました。
私はようやく次のコンテンツに進めます。
退院から3年。
私の右半身は未だに麻痺しています。
失語症も、相変わらず継続中。
でも、私のなかでは大きな変化がありました。
在宅リハビリを“卒業”しました。
もちろん、右半身麻痺と失語症はいまもつづいています。
でも、もう3年です。
3年も経ったのです。
半身麻痺も、私にとっては“日常”となりました。
右半身が動かないことが、“あたりまえ”となってきました。
そこにコロナです。
もういいかな、と。
これ以上、国の厄介になりたくないな。
もちろんリハビリはつづけます。
ひとりで、つづけます。
いわゆる“自主トレ”ですね。
緊急事態宣言以来、“自主トレ”の量は2倍にしました。
この“自主トレ”で、私は右手をいつか動かそうとしています。
その萌芽が、右腕のあちこちにみえています。
でも、まぁ、これからあと3年・・・?
気長に待っていてください。
私も、気長に待っています(笑)
・・・・・みなさん、長い間ほんとうにありがとうございました・・・・・
新たなコンテンツ、つくります。
(まけてたまるかっ)