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夢の『ひろの亭』

私には“夢”があった。

退院後の“夢”。

ずっと願い続けた“夢”。

私の、退院に至るまでの最大のモチベーション・・・

それは『ひろの亭』に行くことだった。

 

 

ひろの亭でラーメンを食べる。

ひろの亭で、おいしい料理をいただく。

そして、ひろの亭で日本酒を呑む・・・

 

あぁ、なんと甘美な想像だろう(笑)

 

その想像がリアルであればあるほど、

私は半身麻痺も、失語症も、その他すべての困難に立ち向かうことができた。

(ちょっと大袈裟?)

 

なのに、その“夢”のひろの亭で、

私が次のように言うことなどあり得ない。

何より自分で自分を許さない。

そう思っていたのだ。

 

「先割れスプーン、ありますか」

 

 

――――――― ● ―――――――

 

 

『ひろの亭』は、東京・駒沢にある。

 

以前、会社(セイファート)は駒沢にあった。

それにつられて私の家も駒沢に移した。

 

「職住接近だ」などと喜んだのもつかの間、

程なく会社は渋谷へ。

私は駒沢に残った。

理由は2つ。

ひとつは渋谷などとても移り住めない。

そしてもうひとつ。

駒沢には『ひろの亭』があった(!)

 

 

『ひろの亭』はラーメン屋である。

店主のひろさんも、

一緒に働く奥さんのゆかさんもそう言い張る。

その証拠に、店に入って席に着くと

まず“水”が出てくる。

おしぼりと、コップに入った水。

ビールを頼む前に、“水”が出てくる。

何年通ってもこれだけは変わらない。

 

私はゆかさんに言う。

「おしぼりはいいけど、水が最初に出てくるのはどうかな」

するとすかさず返ってくるのだ。

「ウチはラーメン屋ですから」

 

 

居酒屋なのである。

私のなかでは居酒屋。

おいしい料理を堪能して、

日本酒も飲んで、

締めにラーメン。

これが私の(私たち常連の)イメージ。

なのにいきなり“水”、なのだ。

 

 

入院中、私は『ひろの亭』への執着に悩まされた。

 

 

病院の食事に不満はなかった。

むしろ「おいしい」と思っていた。

毎食、つくる人はたいへんだろうな、とも思った。

 

クリスマスには小さなケーキ

正月には“おせち”

1月7日には“七草がゆ”・・・

病院で過ごす人たちに、少しでも世間の香りを届けよう。

そんな思いやりを感じるのだ。

 

だがしかし、である。

病院とはまったく別の、

“光”のようなものが『ひろの亭』にはあった。

(同じ土俵で比べるわけにはいかないが)

 

 

たとえば、4月23日の記録がある。

言語聴覚士・Uさんの、宿題の記録だ。

 

同じ日、私は理学療法士のHさんと“原宿”の街に出た。

その話は以前書いた。

まさにその日の宿題に、私は書いたのだ。

『ひろの亭』のことを。

 

 

これには少し説明が必要だ。

 

まずHさんのリハビリがその日を境に変わった。

より実践的に変わった。

 

一方、私の“失語症”に挑むUさんは、

そのずいぶん前から実践的なリハビリを採り入れていた。

つまり“言語”は、

“足”に比べて先行していた。

 

しかも私は“言語”のリハビリに

並々ならぬモチベーションを持っていた。

たとえ“右足”や“右手”が動かなくても、

“言語”だけは何とかしたい。

言葉が出なくても最低限、

“文章”だけは取り戻したい・・・

 

かくしてUさんのリハビリは早くから

かなり実践的になっていた。

 

たとえばエッセイである。

読むのではなく、エッセイを“書く”。

ま、エッセイというか

新聞のコラムを読んで、感想を書く。

それは3月25日から始まっていた。

 

 

 

さて、4月23日の宿題は、

日経新聞の“春秋”というコラム。

これを読んで、私は書く。

内容は“自由”だ。

何を、どう書いてもいい。

ただし手書きだ。

しかも(当然のことながら)左手だ。

 

A4の紙の、上の方にコラムがコピーしてある。

私はその下のスペースを使って書く。

手書きで書く。

 

その日の“春秋”。

テーマは“タケノコ”。

それを料理する様子から、中国の古典へ、

さらにマンガ“美味しんぼ”に至っている。

 

ま、おいしそうなコラムだ。

 

それに対し、私はとっておきのコンテンツをぶつけた。

 

『ひろの亭』である。

 

――――――――――――――――――――

駒沢にあるラーメン店・駒沢ひろの亭では

今ごろ若竹煮がメニューに載ってるだろうか。

いやいや新しもの好きなこ主人のこと。

若竹煮なんて先月初めに終わってしまい、

今頃は水なすの刺身などが出されてるのか。

ま、ちょっと早いか。

でも「エシャロットの千切りキツネ焼き」や

「胡麻さはのみょうがあえ」は出てる気がする。

駒沢ひろの亭はラーメン屋である。

だがメニューを一枚めくると、珠玉の一品が並んでいる。

「岩中豚のレアチャーシュー」

「とりたて新わかめしゃぶしゃぶ」

「豚バラの大根煮 湯浅黒豆醤油」

「ほたてとアボカドのカクテル」

「ゆるゆる豆乳よせ 松茸かにあんかけ」

「白子とタラのアヒージョ」

駒沢ひろの亭は、ラーメン屋である。

たからラーメンも忘れない。

「島根のしじみラーメン」

「湯浅たまり醤油ラーメン」

「沖縄アーサラーメン」に

「アボカドとポルチーニ冷製ラーメン」

あぁ退院が待ちどおしい。

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(ここでクイズです。文中に3カ所、濁音のミスがあります。原文通りに書き写しました。4月末になってもまだまだ濁音は苦手なんです)

 

【写真_36】(クリックしてください)

 

 

さて、本文に戻ろう。

なぜ、こんなにいろんなメニューが書けたのか。

 

覚えていたから・・・?

 

そんなわけない。

なにしろ記憶は不安定。

そこで私が使ったのは“iPhone”。

その中にある写真のストック。

そこから引っ張ってきたのだ。

 

『ひろの亭』に行くと、

私は自分が頼んだ料理を写真に撮っていた。

加えて、たまに友人と一緒するときは

まず先着し、

なかなか仕事が片付かない友人に怒られることを覚悟しながら

(たのしみながら)

“今日のメニュー表”も撮り、メールで送る。

 

もちろん一緒しない友人にも料理写真を送る。

その人が仕事に追われながら、

腹を空かせながらその写真を見て、

いろんな(どす黒い)感情を抱くことは承知の上である。

 

そんなある日、

一緒する予定のなかった友人の女性コピーライターが、そのときの感情を見事に表現した。

 

「めしテロ」

​(ちなみに“ひろの亭”は、閉店してしまいました。2019年の年末に閉店してしまいました!泣)

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