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​“つかない”ウソ

 

 

“読者”であった。

 

ライターにとって、もっとも大事なもの。

それは“読者”。

 

しかもそれは“自分”ではない。

自分以外の人。

つまり“他人”。

“他人”に伝わってこそ、文章が生きる。

 

逆にいえば、

“他人”に伝わらない文章は、即死。

意味がない。

 

“自分”がいくら読んでいるからといって、

その文章が“他人”に伝わるとは限らない。

 

“自分”がいくら「いい文章だ」と満足していても、“他人”に伝わるとは限らない。

 

そしてその“他人”こそが、

文章を届けたい対象、

つまり“読者”なのだ。

 

私はそれに、気づいていなかった。

 

うまく言えているかわからないが、

私はそのとき、“プロ”を意識した。

初めて、“プロフェッショナル”とはなにかを自覚した。

 

 

        ●

 

私の文章は、変わった。

 

それまでは書きたい文章を書いてきた。

 

いや、ちょっと違う。

書きたい文章ではなく、書かねばならない文章?

 

なぜならオレはライターだ。

プロのライターだ。

だから“プロ”として恥ずかしくない文章を“書かねばならない”。

そういうヘンな意識が私を覆っていた。

 

“プロらしい文章”を書かねばならない。

じゃないと個性が出せないじゃないか。

個性を出さないと、埋もれてしまう。生きていけない。

だってプロの世界は甘くない。

ライターなんて何千人、何万人といる。

競争は激しい。

そのなかで生き残っていくためには、個性だ。

この文章、岡が書いたよね、と。

この文章、岡に書いてもらおう、と。

そういう個性がないと生き残れない。

だから・・・

 

その結果が「岡くさい文章」だった。

 

 

だけど、変わった。

 

たとえば私のなかには新たな“読者”がいる。

何人もの“読者”。

私以外の“読者”。

私の頭のなかで読む“読者”。

たとえば“3人の女性たち”。

さらには営業の若手たち。

そしてもちろん制作のディレクターたち。

 

私は日々、その人たちに“依頼”した。

文章を書いたら、頭のなかで“依頼”した。

彼女たちが読んだらどんな反応を示すか。

彼らはどこをおもしろがるのか。

心のなかでシミュレートした。

 

 

やがて私の文章は、ストレートになった。

“いい文章”だと思っていた回りくどい原稿が、まっすぐになった。

よけいな文章は消え去り、最初から本質に迫った。

“岡くささ”は消えていった。

 

もちろん、すぐに変わったわけではない。

少しずつ、少しずつ変わっていった。

変わるように努力した。

 

 

それからさらに1年ほどが経った。

私の文章はより平易になった。

 

たとえば、“一文は短く”する。

できるだけ短くする。

極端にいえば主語と述語だけでいい。

形容詞や副詞などはなるべく使わない。

そうすれば読みやすくなる。

読みやすくなれば、“伝わりやすくなる”。

 

 

やがて言われるようになった。

「こんな原稿、だれでも書ける」と。

陰でそう言われた。

でもそれが、私にとっては褒め言葉。

むしろ誇りになった。

 

「だれでも書ける」

 

うん。そうだ。

けれど

「オレにしか書けない」

 

やがて原宿営業所以外からも発注が来るようになる。

東京の、いろんな拠点から発注が来た。

私は一気に忙しくなった。

 

 

ただ、私の特徴は変わらなかった。

“ルポルタージュ”

その手法を求人広告に取り入れる。

 

「誠実に」「真面目に」

それだけは変わらなかった。

逆にそれ以外、私を支えるものはなかった。

 

 

        ●

 

あるとき、私は久しぶりに“教科書”を手に取った。

沢木耕太郎の本。

それが私の“教科書”だった。

 

その日、書棚から取り出したのは『地の漂流者たち』。

 

なぜその本を取り出したのか、わからない。

きっとなにかの運命のようなもの。

いまはそう思う。

 

読み進めるうち、私はそのなかに決定的な一節があることに気づいた。

以前、読んだときには気づかなかった一節。

 

 

『地の漂流者たち』のなかに『灰色砂漠の漂流者たち』というルポがある。

沢木耕太郎が川崎市を舞台に、そこで働くさまざまな若者たちを描いた文章である。

そのなかの一節。

 

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「話と現実はちがう」と彼らが感じるのは、採用時にウソをつかれるからである。口八丁の採用マンと美しい多色刷りのパンフレットがつく“ウソ”には二通りある。ひとつは、鉄筋五階建ての寮が現実には木造二階建てのボロバラックだったという、いわば“本当”のウソ。もうひとつは、必要なことを何も知らせておかないという、“つかない”ウソ。確かにウソはついていないのだが、勤務には二種あって、早番のときには朝の四時半に起きなければ間に合わない、といったことを前もって教えていないとしたら、これは“立派な”ウソになる。

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『地の漂流者たち』沢木耕太郎著・文春文庫

 

「うわっ」

私は思わず声を出していた。

 

確かに事実を書いてきた。

ていねいな取材をして、

それをもとに“事実”を書いてきた。

 

ウソは、一度も書かなかった。

求人広告というより、むしろルポルタージュを書いてきた。

それが結果的に求人広告となる。

そこに矛盾はないはずだった。

いやそれこそ学生にとっての「誠実さ」だと思ってきた。

 

美辞麗句ではなく“事実”を書く。

真面目に書く。

しかも読みやすく、書く。

私は求人広告にあらたな地平を切り拓いた、なんて・・・

そんな誇らしい思いも少なからずあった。

だがその事実が、事実によって逆襲されたのだ。

 

 

たとえば私に発注がくる。

するとまずは取材である。

 

資料から書き起こす?

会社案内等の資料があるから書いてくれ?

 

そんな手抜きはしない。

まず、取材。

現場の取材。

社員の取材。

 

取材を終えると私は書く。

取材で得られた“事実”を書く。

 

しかし、沢木さんは言うのだ。

それは“事実”であって“真実”ではない。

なぜなら取材対象者は、先方が用意した社員だから・・・

 

私が取材するのは人事が用意した“花形社員”。

仕事は華やか。身分はエリート。

しかもその言動は多くの場合、人事のコントロール下にある。

少なくとも会社の悪口は言わない・・・

 

ウソは書いていない。

しかしそのなかに“書かない事実”はなかったか。

あるいは“書けない事実”が、あったのではないか。

それは“つかないウソ”ではなかったのか・・・

 

 

書けなくなった。

 

誇らしい思いが、一瞬にして壊れた。

ぺしゃんこになった。

 

ウソ。

つかないウソ。

 

自分を責めた。

書けない。

おれは書けない。

これ以上、書けない。

書いていて、いいはずがない。

 

 

1987年6月。

私は仕事をすべてキャンセルし

半ば逃げるように、日本を離れた。

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