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“優先席”に、座るべきだ

優先席・・・

ずいぶんお世話になってます。

特にバスの優先席。

 

もちろん通勤通学ラッシュは意識的に避けているのだが、

それでも満席の場合がある。

そんな時、

私のように“杖をついた人”が乗ると、

必ずといっていいほど席を譲ってくれる。

特に高齢者の方々。

「次でおりますから・・・」

と言って、おばあさんが席を譲ってくれる。

 

私は

「えっ、あっ、どうもすみません。ありがとうございます」

と言いつつ、譲ってもらった優先席に座る。

 

いやあ、いいなぁ。

いい光景だなぁ・・・なんて思いつつ、

ふと別の優先席を見ると、

そこには女子高校生(!)が。

耳にはイヤホンを付け、

手元のスマートフォンに夢中だ。

 

あらら。

でもきっと事情があるんだ。

杖はなくても足が不自由だったり。

うん。そうだ。

そうだよね・・・

 

しかしその女子高校生、

“三軒茶屋”でスーッと、

何事もなかったかのようにそそくさと、

元気に降りていくのである。

 

・・・ま、いいか。

 

 

さて、バスである。

入院後、初めて乗ったバスで

私は何の衒(てら)いもなく、

何の抵抗もなく、

無意識のうちに“優先席”を探した。

 

理学療法士・Hさんから言われたわけではない。

「バスに乗ったら優先席に座ってください」

・・・なんて、言われていない。

なのに私は“優先席”を探した。

 

なぜだろう。

 

 

“優先席”に、「私は座るべきだ」と思った。

当時、思っていた。

「座らせてください」ではない。

「座るのが当然だ」でもない。

「座るべきだ」と。

 

 

 

身体が不自由になったこと。

それは毎日、認識する。

 

毎朝、目が覚めるとまず、

自分の身体が思うように動かないことを認識する。

改めて、認識する。

「チクショー、夢じゃないんだ」と・・・

それから1日が始まる。

 

 

次に認識すること。

それは“感謝”だ。

 

周りの人たちに「ありがとうございます」。

入院中、関わるすべての人に「ありがとうございます」。

お見舞いに来てくれた人にも「ありがとうございます」。

とにかく「ありがとうございます」。

 

この感謝の気持ちが、

人の心理に与える影響についてはまったく知らなかった。

当時はただただ「ありがとうございます」。

 

だがその“感謝”が、

いつの間にか私を変えていたのかも知れない。

 

 

 

バスの中で

私は真っ先に“優先席”を探した。

そこに「座るべきだ」と考えた。

 

なぜか。

 

座らないと

私は乗客全員に迷惑をかけてしまう。

そう思ったのだ。

 

「みなさんに迷惑をかけないためにも、私は優先席に座るべきなんです」

 

なんか不思議な思考回路だ。

「迷惑をかける」から「座るべき」だ。

う〜ん。

ようわからん。

 

「迷惑をかけるから座らせてください」

それはわかる。

 

「身体が不自由だから座るのが当然だ」

それも人間的にどうかと思うけど、まぁわからんでもない。

 

でも、「迷惑をかける」から「座るべき」だ、と。

その整合性というか、

論理の飛躍というか、

弱気と強気の交錯というか・・・

 

 

 

そういえば、退院して半年ぐらいの間、

私は“自分が変わった”ことに気づいていた。

 

とにかく“笑顔”なのだ。

 

どんな場面でも“笑顔”。

人がぶつかってきても“笑顔”。

それこそ“優先席”を健常者に占領されても“笑顔”。

間違っても怒ることなんかあり得ない。

そんな時期がつづいた。

 

あぁこのまま笑顔でいられたら、

世の中平和だろうな。

そう思っていた。

(もちろんそんなお花畑がいつまでもつづくわけがなく、次第にドロドロとした私の暗黒面が息を吹き返すのだが・・・笑)

 

でもその“世の中との蜜月時代”は、なぜ訪れたのか。

 

実はその疑問、つい最近までずっとつづいていた。

なんかモヤモヤしてた。

そのモヤモヤを少しだけ解消してくれる本と、出会った。

 

『サイボーグ時代』(吉藤オリィ著・きずな出版)。

そこにはこう書かれていた。

 

―――人は介助してもらうと、最初は「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする。だが、毎日毎日介助され、「ありがとう」をあまりにも言い過ぎると、次第にそれが「いつもすみません」、「申し訳ありません」に変わる。

 

あぁ・・・

まさしく私の思考回路と同じだ。

さらに著者は書く。

 

―――親や周囲からなにかしてもらうたびに口にする「ありがとう」を使い果たし、ストックがなくなってしまう・・(中略)・・・この状態が続くと、社会や世間に対して申し訳ないという気持ちが強まり、「社会の役に立っていない自分が、他人の世話を受けて生きていても仕方がない」という思考に至ってしまう。

 

―――「ありがとう」はお金と同じだ・・・(中略)・・・自分が感謝を口にするばかり(支出ばかり)で、ほかの人から感謝をいってもらえなくなる(収入がない)と、自分の口から出る「ありがとう」が借金のように重くのしかかり、感謝の代わりに謝罪が始まる。

 

著者は、見出しに次のような言葉を持ってきた。

 

―――「ありがとう」は 言い過ぎると負債になる

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