Fさんの大胆な“発注”

脳が、がぜん活性化し始めた。

 

昔のこと。

20代のころ。

 

そんなこと一度も思い出さなかった。

入院してから一度も。

 

しかし、脳から過去があふれてきた。

きっかけとなったのは“東急プラザ”。

 

私はそこに勤めていた。

 

 

“東急プラザ表参道原宿”。

正式にはそう言うらしい。

しかし私にとっては“セントラルアパート”。

建て替える前は、『原宿セントラルアパート』。

 

昔、その一室に“リクルート・原宿営業所”があった。

私はそこで制作のチーフ(アルバイトだが)として勤めていた。

 

 

『原宿セントラルアパート』。

伝説のアパートである。

 

60年代から80年代半ばまで、

コピーライター・糸井重里やフォトグラファーの浅井愼平、

“話の特集”編集長の矢崎泰久、イラストレーターの宇野亜喜良など、

いわば日本を代表する文化人、クリエイターを輩出した。

 

そのアパートに、リクルートが(こっそり)乗り込んだのは1984年。

セントラルアパートは最後のときを迎えようとしていた・・・

 

 

 

「そろそろ帰りましょう」

H先生の言葉で、我に返った。

 

私は再び、視線を落とした。

視界は約1・5メートル。

陽光は相変わらず強く、人々の影が行き交っていた。

 

 

その時、私がどうやって帰ったか。

よく憶えていない。

人混みを歩き、

歩道の狭い登り坂を上り、

長い階段を上って最後のスロープを上った。

それは確かだ。

 

もちろん私の脳は路面のようすを判断し、

転ばないように身体のバランスを整えた。

 

ただ、帰り道はつねに“上り”だった。

どちらかというと、下りより容易だ。

教訓「下りは恐怖だが、上りは楽だ」。

 

だから、だろうか。

私は脳のどこか一端で、考えつづけていたように思う。

“セントラルアパート”のことを。

 

それは部屋に戻り、次のリハビリを待つ時間もつづいていた。

 

私はリクルートにいた。

リクルートから独立して、コピーライターになった。

 

1985年のことである・・・

 

おっと・・・

昔話なんか聞きたくない?

 

ですよねー

 

 

話を戻そう。

 

えっと・・・そうだ。

2017年(平成29年)4月23日の話だ。

 

私は初めて“街”を歩いた。

 

原宿。

それが私を過去へといざなった。

過去のいろんなことを思い出した。

 

過去に飛ぶ。

それは今の情況から逃避したいから・・・。

 

それもあるだろう。

だが、その話には伏線があった。

その10日ほど前。

私はライターとして“仕事”を受け、納品していたのだ。

 

 

ある日、セイファートの総務人事部長・Fさんが病室を訪れた。

 

Fさんは何度かお見舞いに来てくれていた。

また私が“本日の業務予定”と称して、

その日のリハビリ日程を送る宛先もFさん。

つまり私がセイファートという“会社”とつながっていたのは、

主に代表の長谷川さんと、

Fさんであった。

 

 

そのFさんが病室に入って来るなり言ったのである。

「会社案内の直しをお願いしたいんです」

 

セイファートの会社案内は一部、私が書いていた。

以前なら簡単に引き受けただろう。

むしろ「私がやらないで誰がやる」くらいの勢いである。

 

しかし私は入院中であった。

失語症もひどい。

その状況をFさんはわかっている。

それでも私に発注する。

 

ま、大胆不敵・・・

としか言えない・・・

 

私はようやく“iPhone”が使えるようになったばかり。

果たしてパソコンは使えるのか。

左手だけで文章が打てるのか・・・。

 

 

「だいじょうぶですよ」とFさんは言った。

「岡さん、以前から指一本で打ってたし」

 

うん。

 

たしかに私は指一本で文章を打っていた。

ブラインドタッチなど知らないし、必要としなかった。

しかも未だにカナ入力・・・

(ほっといてくれ!)

 

 

だけど、そんなことより失語症だ。

自分は果たして文章を書けるのか。

 

 

 

“宿題”は、U先生(言語聴覚士)の大胆なチャレンジによってあらたなフェーズに入っていた。

新聞のコラムを読んで、その感想を書く。

毎日、書く。

 

けっこうおもしろがって、いろんな感想(=文章)を書いた。

でもそれらはすべて手書き。

パソコンなんて使わない。

しかもあくまで入院中の“宿題”である。

失語症の患者が、言語聴覚士と交わすコミュニケーションである。

会社の“顔”となる会社案内とは本質的に異なる。

 

 

だけど、私はFさんの発注を機に思い出したのだ。

 

ライターになったいきさつ。

 

「私は“書く”ことよりも、“読む”ことを重視していた」

 

 

 

文章が、読めなかった。

 

ようやく新聞のコラムが読めるくらい。

それが限度。

 

長い文章が苦手だった。

それはライターにとって致命的な弱点だった。