これで、いいのだ!

時間の感覚は、治らなかった。

 

2月を越え、3月になっても治らなかった。

そこで私は「やり過ごす」ことにした。

いくつもの悩みとともに「やり過ごす」。

 

たとえば手。右手の麻痺。

これがどうしても治らない。

 

毎日リハビリを受け、

自主トレに取り組んでも、

右手はピクリとも動かなかった。

 

そこで「やり過ごす」。

悩まない。

 

右手は動かない。

まだ、動かない。

でもいつか動く。

きっと動く。

それまで待つ。

リハビリを続けながら、待つ。

これでいいのだ、

・・・って『バカボンのパパ』の心境だ。

 

あるいは記憶。

とくに“短期記憶”は、

『日赤医療センター』時代から悩みのタネである。

それが何カ月たっても相変わらず、である。

一向に治る気配がない。

ちょっと前のことをすぐに忘れる。

 

たとえば日付。

 

相変わらず言語のリハビリは、

“今日の日付”から始まった。

日付。名前。なまえ。生年月日。住所。

それが毎日である。

週7日である。

 

左手が描く文字は、美しくなった。

右で書いていたときより美しい。

みんなに見せたいくらいだ(ウソ)。

 

【写真_29】(クリックしてください)

 

しかし日付だけは毎日、

机の上に置かれたカレンダーに頼った。

 

えっと・・・。

今日は何日だっけ。

 

でも考えた。

記憶力が弱っていたら、

補強するためのツールを使えばいい。

たとえばカレンダー。

スケジュールを書いたメモ。

そして“iPhone”。

「これでいいのだ」。

 

さらには漢字。

とくに濁音が弱かった。

でも悩まない。

たとえ間違ってもくよくよしない。

だって、できないんだもん。

 

それに最後は“iPhone”とか、

パソコンで打てば勝手に候補を出してくれる。

だから悩まない。

うん。「これでいいのだ」。

 

私が入院中、明るく過ごせたワケ。

それはこの言葉があったからだ。

 

「これでいいのだ」

 

今はできない。

だけどいつかできる。

きっとできる。

それでいいのだ。

 

その言葉に、私は救われていた。

 

だけど・・・

 

脳の損傷である。

もしかして治らないかもしれない。

その可能性はつねに“脳”の片隅にあった。

だけどその“片隅”を、私は無視した。

 

ただ・・・

 

後遺症は人それぞれ違う。

もし私の損傷が、

たとえばほんの少し別の場所であったら。

たとえば前向きな発想の箇所(あるのか?)を、損傷していたら。

入院はまったく異なる様相を呈していただろう。

 

患者のなかには怒りっぽい人もいた。

リハビリをいやがる人も、

まったくしゃべらない人もいた。

大声でわめき散らす人も、

「助けて−」と毎日言い続ける人も。

 

その人たちが病気になる前は、どんな人だったのか。

それはわからない。

 

 

いや私自身も、病気になる前のことはわからない。

実は今の性格とはまったく違う人だったのかも知れない。

以前の私の、記憶が消えてしまっているかも知れない。

ほんとうのところはわからない。

それが脳の病気なのだ。

 

 

さて、いろんな悩みをつらつら書いた。

申し訳ない。

そこで明るい話題を。

 

“右足”の話である。

1月末。

院内の『テスト』に合格して、

ひとりで車椅子を動かせるようになった。

これは素直に感動した。

 

ただ、自由は勝ち取ったものの、

車椅子で移動する現実は変わらない。

 

先生の介助で

なんとか立てるようになったし、

装具を使って少しは歩ける。

だけどリハビリが終われば車椅子。

これは2月一杯、変わらなかった。

 

ところが3月に入ると状況が一変する。

理学療法士のHさんの勧めもあって、

自分専用の“オリジナル装具”を作ったのだ。

 

車椅子から離れて

自力で立つには“装具”が必要だった。

右足の膝から足首、

つま先までをカバーする“装具”。

それがないと歩けない。

立つことさえできない。

そこでリハビリの際には“装具”を借りるのだ。

 

ただ、それが時に“争奪戦”となる(こともある)。

 

いや、“戦う”のではなく

単に早い者勝ちなのだが・・・。

 

そこで患者は“自分専用の装具”をつくることを勧められるのだ。

 

3月9日。

私の“装具”が完成した。

足の型を取ったオリジナル装具だ。

 

よし、これで争奪戦とは無縁となる・・・。

 

だが、自分の“装具”を持つことは、

より大きな、

私にとっては画期的な意味を持っていた。

 

自分の“装具”ができた。

それはリハビリの先生が、

お墨付きを与えたことになるのであった。

「装具を作ってもいいよ」と。

 

それはすなわち先生が

「自力歩行にオッケーを出した」と。

そういうことになるのだ。

 

 

自力歩行にオッケーを出す・・・?

 

ということは・・・

 

自力で“歩く”ことが認められた、ということ。

 

つまり

「車椅子が必要なくなる」

「車椅子から解放される?」

 

驚いた。

えっ、ホントに?

ホントにいいの?

 

 

当初は食事のときに限定されていた。

食事のとき、食堂に向かう。

その際、“車椅子を使わない”のだ。

 

杖はつくものの、

自分の足で立ち、歩く。

歩いて食堂へ行く。

 

もちろんスタッフに付き添ってもらうが、

それでもうれしい。

うれしくてしょうがない。

だって自分で歩けるんだよ!

 

しぜんに笑顔になった。

 

なにより視界が一変する。

車椅子の視界と、立った視界。

こんなに変わるのか、というくらい変わる。

 

どうだ。オレは立っているぞ!

 

高くなった視界とともに、

私は“病気”そのものを見返していた。

 

どうだ、脳出血!

オレは立っているぞ!

 

 

さらに夢は募る。

 

よぉし、今度は“食事限定”を外してやる。

スタッフの介助もなくす。

いつでも自力でどこにでも、

自分の足で動き回りたい・・・。

 

あらたな目標ができた。

そこで再び『テスト』の情報を集める。

 

すると新たな事実が。

 

自力歩行の許可は

「単に自分の自由のため」ではなかった。

むしろ退院に向かう第一歩。

 

退院時に車椅子のままなのか、

それとも“自分の足で歩いて”退院するか。

 

どうやら私は“自分の足で歩いて”退院できる。

車椅子を使うことなく

自力歩行で退院できる・・・。

 

3月9日は、その分岐点となったのである。