転倒という“事件”

私は覚悟を決めた。

 

左足を下ろす。

 

そーっと、ではない。

どちらかというと勢いをつけて下ろす。

じゃないと右足が耐えきれない。

だからなるだけ時間をおかず、思い切って下ろす。

 

ただ、あまりに勢いをつけてしまうと

身体全体のバランスを崩す。

よって微妙な感覚が求められる・・・。

 

 

・・・なんて、それは今、書いていて思うことだ。

実際はそこまで考えていない。

ましてや“弱った脳”だ。

 

覚悟を決めたからには左足を下ろす。

その間、右足で支える・・・。

 

 

できた。

できるじゃないか。

 

H先生も褒めてくれる。

 

次の一段。

右足が先。

つづいて左足。

 

うん。できる。

 

次。
右足。つづいて左足・・・。

 

ついに床まで戻った。

 

ふーっ。

 

ただその間、身体を支えていたのは、右足よりも左手だった。

上るときも下りるときも、左手の支えがないと成功しない。

 

そこで教訓。

 

「階段は手すりがないとチャレンジできない」

 

ちなみに床まで下りた時、

左手の掌は汗びっしょりだった。

 

 

でも、できた。

階段を下りられた。

またひとつ、できることが増えた!

 

と思ったのもつかの間、

早くも暗雲が立ちこめる。

 

 

階段の練習は毎日おこなった。

H先生が休みの日も、

他の先生が引き継いで練習をつづけた。

だがどうしてもクリアできない要素があった。

 

 

上りは左足から。

下りは右足から。

これが鉄則だ。

 

最初の一歩をその通りにやれば、

あとは連続して動ける。

だが、

その“最初の一歩”が問題だった。

 

 

“脳”である。

弱った“脳”。

これがうまく動かない。

 

最初に出すのはどっちだっけ。

 

“短期記憶”である。

直前のことを忘れてしまう。

毎日やっていても忘れてしまう。

右だっけ、左だっけ。

 

 

“上り”はまだいい。

右足は動かないので、

右から上の段に上げることはできない。

だから最初は左足だ。

そう思えば間違うことはない。

 

問題は“下り”である。

 

「先に下ろすのは右だっけ、左だっけ」

 

えっと・・・。

 

わからない。

わからないときは出してみる。

 

えぃ。

 

たとえば動く方の左を出す。

と、即座に先生が止めにはいる。

 

だが間に合わないときもある。

すると・・・。

 

身体は一瞬でバランスを崩し、

倒れてしまうのだ。

 

 

もちろん先生がなんとか止めに入ってくれる。

倒れる前に救ってくれる。

じゃないと事件(?)になる。

 

 

“転倒”。

 

それは“事件”である。

リハビリ病院の患者にとって“事件”である。

原因が階段ではなく、普段の生活でも。

 

 

たとえば自分の部屋でバランスを崩し、転ぶ。

すると看護師、スタッフ、リハビリの先生が次々とやってくる。

 

まず、血圧の測定。

心拍数。体温。

みんな蒼くなって、さまざまな検査をする。

さらに主治医の先生もやってくる・・・。

 

オオゴト、である。

 

私も何度かやらかしてしまった。

 

自分の部屋である。

単独の“転倒”である。

ごまかしてしまえばいい。

そう思うかもしれない。

しかしそうはいかないのだ。

 

忘れてもらっては困る。

私は半身麻痺の人間だ。

いちど転んだら自力では起きられない。

 

よって誰かが来てくれるまで待ってる。

オオゴトになるのを覚悟しながら、待っている。

それは、私にとっては屈辱の数分間なのだ。

 

もちろんただ待っているわけではない。

ゴソゴソ、モゾモゾ・・・。

左手は何か支えになるものを探している。

助けが来る前に起き上がってしまえば、

何事もなかったかのようにごまかせる。

だから患者(私)も必死だ。

 

しかし天は我を見捨てたもう。

 

たいがい、すぐに見つかる。

 

まず何より“音”だ。

転ぶときの音。

これがかなり大きい。

 

半身麻痺であるから

転ぶときは防ぎようがない。

ショックをもろに受ける。

と言うことは、

となりの患者さんには確実に聞こえる。

だから通報がいく。

 

 

となりの患者さんがリハビリで不在なこともある。

それは“ラッキー”だ。

ゴソゴソ、モゾモゾしながら必死で起き上がろうとする。

 

それで見つからなかった“転倒”が1回だけある。

(先生方、すみません。今、告白します)。

 

努力も空しく(?)、

見つかった“転倒”が2回。

そのときはやはりオオゴトとなった。

 

看護師さん、スタッフが飛んできた。

リハビリの先生も、主治医の先生も駆けつけた。

そして最後、私の後見人=

セイファートの長谷川代表に連絡が行くのだ。

 

「実は岡さんが転倒しました」

 

やはりオオゴト、である。