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健常者との“区分け”

右足のリハビリも進んでいる。

 

4月23日の“原宿初体験”以来、

リハビリはより実生活に適合したものへと進んでいった。

 

それまでは、“私ができること”を繰り返し行う。

それがリハビリだった。

 

だが、初めて“街”に出たあたりからH先生は変わった。

できることばかりではなく、

できないこと、できそうもないことも課題にする。

 

たとえば・・・・

 

H先生はボールペンを床に落とす。

そして私に言うのだ。

 

「拾ってください」

 

 

えっ・・・?

最初は驚いた。

 

なにやら患者(私)を“いじめ”てるようにも見える。

だがそれも立派なリハビリだ。

 

私は動くほうの左ひざを曲げ、

床の上のボールペンに向かって左手を伸ばす。

そのとき、右ひざも一緒に曲がる。

右がまっすぐのまま突っ立ってたら

床のボールペンは拾えない。

自分の意志で曲がるわけではないが、確かに曲がる。

それだけでリハビリの効果はある。

(おそらく・・・)

 

だって普段まったく曲がらない右ひざが自然に曲がるのだ。

 

 

最初はゆっくり。

身体を曲げると同時に、ひざも曲げていく。

ボールペンはもうすぐだ。

 

・・・しかしなぜボールペン?

   もっと嵩のあるものがよかったなぁ。

   たとえばサッカーボール。

   あ、片手では持てないかな。

   じゃあテニスボールでもいい・・・

 

ぶつぶつ考えながらも左手はボールペンに触れる。

 

よし。拾えた。

拾ったら、

またゆっくりとひざを伸ばしていく。

 

そのとき、気をつけないといけないこと。

それは身体のバランスだ。

バランスを崩さないように・・・

ゆっくりと、慎重にひざを伸ばしていく。

じゃないと“オオゴト”になる。

オオゴト・・・つまり“転倒”だ。

 

 

無事、伸ばし終えた。

左手にはボールペン。

ふーっ。

 

 

でもなぜこのリハビリが必要なのか。

 

それは日常生活に不可欠だからだ。

これができないと、

私は床の上に落としたものを拾うことはできない。

 

もちろんイスに座って手を伸ばすという方法もある。

しかしそれはイスのある室内の部屋。

たとえば屋外でモノを落としたら・・・

最悪だ。

 

立ったまま拾えないと“寝転ぶ”しかない。

(いや、ホント)

でも外で“寝転ぶ”なんてムリ。

だからモノを落としたら・・・あきらめる。

しょうがない。

最初からなかったことにする・・・

 

(近くにいる人に拾ってもらえばいい、って・・・?)

(えぇ、そうです)

(でもそのときは人のやさしさに思いは至らなかった)

 

 

でも室内で“寝転ぶ”こと。

それはリハビリのなかにしっかり入ってくる。

 

たとえばベッドではなく、布団に寝る場合。

 

実生活がベッドだったら、何の問題もない。

ベッドに“寝転ぶ”のは簡単だ。

それは一度、ベッドの上に“座る”という行為が挟まっているから。

 

しかし布団はそうはいかない。

布団の上には座れない。

直接、座れない。

布団にはベッドやイスとはまったく異なる“試練”が・・・

 

うまく説明できないが・・・

 

たとえば“腰”の位置?

ベッドと布団の“高さ”の差?

 

・・・とにかく布団はたいへんなのだ。

(スミマセン。説明できない)

 

で、どうするか。

 

まず“ボールペンを拾う”体制で、ひざをゆっくり曲げていく。

そして“ボールペンを拾う”体制で

左手を布団の上におろす。

おろすと同時に、

指を拡げて身体の“支点”をつくる。

 

一方、足である。

左足のひざを曲げて、これもゆっくりと布団の上におろす。

そして左手と左足のひざが布団に着いた次の瞬間、左側の背中から身体を布団の上に投げ出すのだ。

どーん!

ま、少々荒っぽい。

布団に寝るリハビリは、毎回

どーん!

 

“ボールペンを拾う”ことは、

布団の上に“寝転ぶ”行為とつながっているのだ。

 

 

あるいはH先生、“障害物”にも挑戦する。

 

これまでは病院内のきれいな廊下を、まっすぐ歩く。

それが“歩くリハビリ”だった。

ところがH先生は“意地悪”になる(?)

 

 

たとえば食堂。

多くの人が食べ終わったばかりの食堂は、

イスが乱雑に散らばっている。

そのイスを避けながら歩け、と言うのだ。

いやもちろん(Hさんの名誉のために言っておくが)言葉はやさしい。

「ここまで歩いてみましょう」

 

「はい」と言って、私は考える。

“さて、どうやって歩くか”

 

左右にイスを避けて歩く。

これは、ま、なんとかなる。

問題は狭い場所。

身体をまっすぐにしては通れない場所。

そんなときは身体の向きを横にしながら歩く。

必ず“動く左足”を前にして

蟹のように一歩、また一歩と進む。

 

あるいは倉庫。

数多くのリハビリ道具やイス。

これを避けながら歩く。

縦になったり横になったりしながら、歩く。

そんなリハビリが加わった。

 

 

「なるほど」と思う。

普段の生活ではこれができないとアウトだ。

意識していないかも知れないが、

人はちょっとした障害物を避けて生活している。

 

たとえば狭い道にクルマが止まっている。

人はその脇を通る。

ときには身体の向きを横にして通り過ぎる。

「なんでこんなところに止めてるんだ!」

運転手に少々悪態をつきながらも通り過ぎていく。

(いや、以前の私がそうだった)

そして次の瞬間、

運転手のことも、悪態をついた自分のことも忘れてしまう。

それが実生活だ。

 

だけど身体に障害があると、ちょっと違う。

まず、自分が通れるかどうか。

それを判断する。

(あ、それは健常者も同じか)

 

でも、障害者はつねに自分の能力を測っている。

どのくらいの幅なら通り抜けられるか・・・(ん、それも同じ?)

 

そうか。

健常者もつねに(無意識のうちに)判断している。

ということは・・・

ちっとも違わない?

 

もちろん車椅子は別だ。

車椅子のまま退院することになったら、

それは想像を超えた大変さがあるだろう。

だけど車椅子を離れた私はどうだ。

あくまでも健常者と同じレベルの生活に向かう。

そのためのリハビリ・・・

 

ふと思った。

障害者と健常者。

私は障害者。あなたは健常者。

そんな区分けはどこにあるんだろう。

 

“今は”障害者。

だけど“将来は”健常者。

そんな区分けがあれば、私はそれを望む。

 

ただ、と思う。

障害が固定している人はどうするんだ。

病気が進み、

特効薬も見つからず、

回復の見通しが立たない人は・・・

 

私だって生涯、右手が動かないかも知れない。

半身麻痺のまま、かも知れない。

失語症が治らないかも・・・

 

(まぁ考えたくないが・・・)

 

でも、

それでも私は考える。

病気になって

半身麻痺になって

失語症がひどくても

私は“生きて”いる。

 

以前のように身体も頭も

ひょっとしたら心も

うまく動いていないけれど

それでも“私は生きている”。

 

私だけじゃない。

世の中にはいろんな人がいる。

それぞれがそれぞれの立場で

境遇で

今日を生きている。

 

かなしかったり、さびしかったり、うれしかったり、よろこんだりしながら生きている。

それらをひっくるめて“人間”だ。

それが“生きる”ってことだろう。

 

だとするならば、

障害者とか健常者とかいう“区分け”はいらない。

“区分け”必要だとすれば・・・

生きているか

死んでいるか

 

生きているのなら

それぞれのその境遇が

たまたま今の

現時点での自分であり

次の瞬間にはまったく異なる自分がいるのかもしれない。

 

それはそれでこわいことではあるが、たのしみでもある。

なぜならそれが“生きてる”ってことなのだから・・・

 

 

私は病気になって思った。

“区分け”なんて意味がない。

“区分け”がいらない世界を生きていきたい。

 

 

ただ、ひとつだけ言っておかねばならない。

「区分けはいらない」なんてカッコイイこと言ってるけど、

健常者と障害者のちがいは厳然としてある。

 

たとえば時間だ。

なにしろ障害者は時間がかかる。

身体を横向きにして通るだけでも、健常者の3倍、いや5倍の時間がかかる。

当然、後ろから来た健常者はイラつく(表立っては見せないが)だろう。

でも、ま、それもそこを通り過ぎてしまえば、すぐに忘れるだろう。

 

でも時間だけじゃないかもしれない。

 

健常者と障害者のちがい・・・

 

どうなんだろう。

う〜ん。

 

わからん。

その違いは、

たとえば退院しないとわからない。

だって病院は、すべてをケアしてくれる人々の中で暮らすようなもの。

だから本当のところはわからない。

 

健常者と障害者のちがい・・・

 

ま、退院してから考えようっと・・・

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