top of page

​脳が

どこかに・・・

左手で“箸”を持つ

“箸”である。

 

2017年の春、

私の頭を占領しつつあったもの。

それは“箸”であった。

 

 

ある日、病院の昼食は“ラーメン”だった。

 

月に一度くらいの割合で“ラーメン”が出る。

それが私の楽しみのひとつだった。

 

もうひとつは“カレー”。

これも月に一度(くらい)昼食に出る。

とびっきりおいしいわけではなく

けっして辛くもなく・・・

​

でも“カレー”である。

あの匂いが食堂に充満する。

それだけでうれしくなる。

なにやら子どものようだが、私はカレーが大好きだった。

 

 

で、その日は“ラーメン”である。

キャベツやらニンジン、もやしなどが乗っかる野菜タンメン。

それが私の前に置かれる。

そのとき私は思った。

いやラーメンのときは毎回、思うのである。

 

「箸が使えればなぁ」

​

 

食事の際、トレイには食器がついてくる。

スプーン。フォーク。先割れスプーン。そして箸。

患者はそれぞれ自分に合った食器を手に食事に取りかかる。

 

私はラーメンをフォークで食べた。

左手に持ったフォークで食べる。

楽しみなラーメンをフォークで食べる・・・

 

うまくない。

 

フォークで食べると、ラーメンはうまくない。

 

試しに先割れスプーンで食する。

 

うまくない。

 

 

やはり箸。

箸で麺をつかみ、

口に入れると同時にずるずると吸い上げる。

(あ、すみません。下品ですね)

でもやはり「ラーメンは箸でしょう」と思うのであった。

 

 

早く箸を使えるようになりたい。

“右手”で箸を使えるようにならなければ・・・

 

入院当初から、私はそう思っていた。

そのために作業療法士のY先生と努力してきた。

右手が少しでも動くようになったら

補助道具を使って“箸”を持つ。

そんな“夢”も見ていた。

 

 

しかし、そんな日は訪れなかった。

 

補助道具うんぬんの話ではない。

なにより右手はいっさい動かないのだ。

 

まず、指が開かない。

右手は閉じている。

親指を中に入れた状態で、

他の4本の指はしっかりと親指を包み込むように閉じている。

 

1本ずつ、左手で開いてあげれば言うことは聞くが、別の1本に興味が移ると(別の指を開こうとすると)すぐにまた閉じてしまう。

まぁやっかいだ。

 

私は思った。

右手の指たちはどうやらぐっすり眠っている。

脳からの指令がないから眠っている。

その指たちを、まるで私が起こして回っているかのようだ。

だからきっと指たちは言っているのだ。

「なんだよー、起こさないでよー、まだ眠っていたいんだよー」

 

 

あるとき、私は決断した。

 

右手は動かない。

いまのところ、動かない。

じゃあどうする。

左手だ。

左手で箸を持つ。

できれば自在に動かす。

だって左手は動くのだから・・・

 

 

私は左手で、箸を持つ練習を始めた。

まずは“持ち方”である。

 

えーっと・・・

 

箸を上下2本に分けて考える。

 

上の箸は人差し指と中指か?

下の箸は薬指の上?

 

意識してなかった。

右手を使っていたとき、箸の持ち方などまず意識していない。

だからそれぞれの位置や動きを分解するとどうなるか。

わからない。

 

しかも“右手という見本”がない。

見本があれば真似できる。

右から左へ。

何度も移し替えながら真似できる。

だけど右手は使えない。

固まったままだ。

 

よって思い出そうとする。

箸の持ち方ってどうだっけ・・・

 

思い出せない。

 

子どものころ、

箸の使い方をどうやって覚えたのか。

 

思い出せない。

 

はるか遠い昔だ。

 

息子たちに教えた?

それも20年以上前のことだ。

それに“脳”が弱っている。

記憶力が、なくなっている。

よってもう一度、組み立てなければならない。

まず、持ち方の“分解”から・・・

それがスタートだった。

 

 

リハビリの先生には言わなかった。

毎回、食事の際に来てもらうわけにはいかない。

よって1人でやる。

ま、自主トレだ。

 

都合のいいことに

トレイには箸が載っているではないか。

毎食、載っている。

使わなくても載っている。

それを使うという選択もできるし、

使わないという選択もできる。

 

たとえば箸を使わずスプーンで、

あるいはフォークで

(無難に)食事を済ますこともできる。

そしてそのまま退院することもできる・・・

 

 

箸を使うことは、リハビリの重要課題ではなかった。

それよりも足。

​

車椅子ではなく立って歩くこと。

それも病院内ではなく、“街”を歩くこと。

それに比べれば“箸”を使うことなど取るに足りないこと。

だってスプーンで代用できるじゃん。

麺類はフォークもあるし、先割れスプーンもある・・・

 

 

私はイヤだった。

© 2023 著作権表示の例 - Wix.com で作成されたホームページです。

bottom of page