脳が
どこかに・・・
『五十音表』からの、卒業
「花屋さんではどんな花を売っていますか?」
新しい『プリント』だった。
宿題ではない。
先生が目の前で答えを求める。
しかも先生は、担当のUさんではなかった。
週7日のリハビリ。
先生たちは当然、休みを取る。
しかし私たち患者には休みがない。
(もちろんそれはありがたいことだ)
よって週に2日は代わりの先生が担当する。
その日は初めて会う言語聴覚士の先生だった。
さて、『プリント』である。
私は答えを書こうとして、硬直した。
「花屋(はなや)さんではどんな花(はな)を売(う)っていますか?」
ごていねいにふりがなまで振ってある。
左手に鉛筆を持って、答えの欄に書こうとする。
(簡単じゃないか)
最初はそう思った。
A4の紙に大きな文字。
答えの欄は1問につき3つ。
つまり「花」の名前を3種類。
(さて・・・)
書けなかった。
目の前には先生。
初めて会う先生。
私は少しでも「いい格好」を見せたいと思った。
それが私の担当のUさんの評価にもつながる。
だから新しい先生には最初からガツンと・・・。
書けなかった。
時間が経過する。
左手は鉛筆を握ったまま動かない。
目は問題を凝視する。
油汗が背中を流れる。
わからない。
「花屋さん」では「どんな花を」。
だから、花だ。
花・・・。
花って・・・なんだ。
ギブアップ。
書けません。
問題は3問あった。
1 花屋さんではどんな花を売っていますか?
2 八百屋さんではどんな野菜を売っていますか?
3 家庭で飼っているペットにはどんなものがありますか?
全滅だった。
というか、2や3にはそもそも行かなかった。
私の様子を見て、先生が『プリント』を取り下げたのだ。
その後、その先生とどんな会話をしたのか覚えていない。
先生の顔も、名前も覚えてない。
それから約1カ月。
私の前には同じ『プリント』・・・。
「花屋さんではどんな花を売っていますか?」
先生は、また別の人だった。
しかしそのとき、なぜか私は難なく答えた。
スラスラと書けた。
「バラ」「かすみ草」「ゆり」。
(かすみ草はどうかと思うが・・・)
私は先生に言った。
「1カ月前・・・同じ・・・問題に・・・答え・・・答えられなかった」と。
すると先生は『脳』の絵を描いて教えてくれた。
「脳のなかにはいろんな言葉が記憶されています。しかもそれぞれが各カテゴリーに分かれて貯蔵してある。たとえば花だったら花。野菜だったら野菜。それぞれの名前をカテゴライズして覚えている。ペットも地名も、なんでもそうです。それが岡さんの場合、バラバラになっていた。“花”と言っても、結びつける方法がなかった。でも花の名前は知ってるんです。バラとか、ゆりとか。でも当時はそのひとつひとつが“花”というカテゴリーには入ってなかった」
ではなぜ、今日は書けたのか。
“花”のなかになぜ、それらが入ったのか・・・。
わからなかった。
だけどそのころ、実は画期的なことが起き始めていた。
ある日、私はいつものように“ライン”でメッセージを打っていた。
日々のリハビリの予定を会社の同僚に送る『本日の業務予定』。
打ち終わって気づいた。
(あ、一度も五十音表、使わずに書いた)
つまり『五十音表』に頼ることなく、
“iPhone”で文字が打てたのだ。
“10文字”以外の文字が打てたのだ。
無意識に、打てたのだ。
その記念すべき日・・・
それは2017年(平成29年)1月29日。
『五十音表』を手に入れて、ちょうど1カ月が経っていた。