6カ月後の目標は、「完治」

正月は、いつの間にか去っていく。

元旦の夜、

病院の食事にはおせち料理が入っていた。

 

3日の夜、

お見舞いに来てくれた居酒屋『ひろの亭』の大将・ひろさんが、

手製のオリジナル“おせち”を持ってきてくれた。

(規則で食べられず、見るだけ!だった・・・なんともザンネン・・・)

 

それが2017年、

平成29年の、私にとっての正月だった。

 

 

さて、リハビリも本格的になってきた。

 

“言語”だけでなく“右手”と“右足”も、

それぞれの療法士が真剣に機能回復のプログラムを考え、提案してくれる。

 

たとえば理学療法士のHさん。

20代前半の女性療法士。

華奢な身体にもかかわらず、

私の全体重を支えながら、歩く練習に付き合ってくれる。

そう、歩くのだ。

右足には装具をつけて、歩く。

徹底的に歩く。

 

いや最初は“歩く”というか、

立ってるだけだ。

その体制から右足を、そーっと前に出す。

 

“一歩”

なんて夢のまた夢。

“半歩”も出ない。

靴半足分くらいかな。

その右足に合わせて、

動く方の左足を動かす。

最初はそこからだった。

 

 

リハビリを始めたころは

車椅子から立つだけだった。

両方に手すりがついたフロアに、立つ。

左手を支えにして、立つ。

 

次に、手すりの間を数歩・・・。

 

やがて手すりの間を“卒業”し、

手すりのないフロアに立つ。

車椅子から離れ、

両側に手すりのないフロアに立つ。

 

もちろんHさんが支えてくれているものの、

私は立った。

そのときの感激・・・

(というか、ほんとうは怖かった。

転ぶのでは、と怖くて仕方がなかった。

Hさんにはそんな素振り、見せなかったが・・・)。

 

足のリハビリは進歩が見えた。

ゆっくりだが、

「立って、歩く」という目標には確実に近づいていた。

 

 

だが私の右手は、

まったく言うことを聞いてくれなかった。

作業療法士のYさんは、

そんな右手に根気よく付き合ってくれた。

 

 

『原宿リハビリテーション病院』に転院したとき、

私は無邪気に思っていた。

「退院までの6カ月で完治する」

「完治して仕事に復帰する」と。

 

だって6カ月である。

24週間である。

それはずいぶん長い入院生活に思えた。

 

さらに私には3人のリハビリのプロと、

看護師、医師がついている。

これで完治しなかったら、私の責任だ。

私がリハビリをサボったからだ。

だから私は真面目に取り組む。

プロの先生たちに従順に従う。

 

 

私は転院後すぐに自らの目標を立てた。

 

“完治”。

 

車椅子から解放されて自由に歩くことはもちろん、

右手も何不自由なく動くこと。

そんな自分が6カ月で実現できる。

そう思っていた。

真剣に思っていた。

 

ただその目標を宣言した時、

言語聴覚士のUさんの笑顔が

一瞬、凍りついたような気がした。

しかしそれは気のせいだと思っていた。

 

“iPhone”が、『五十音表』の助けを借りて

何とか動かせるようになった私は、ある日

インターネットにつないでみた。

 

そのころにはもう、私の病名は明確に知らされていた。

 

「脳出血」

「しかし出血量が30cc以下だったため、外科手術は免れた」

 

そこで“脳出血”の項を調べる。

するとたくさん出てくる。

だけど私が知りたい内容は出ていない。

 

知りたいのは「どのくらいで治るのか」。

 

どれもがあいまいだった。

 

脳の、どの部分の出血なのか。

どんな量の出血なのか。

どこにどのような麻痺が出ているのか。

それによって症状は変わる。

 

インターネットでわかったこと。

それは「わからない」ということだった。

 

症状は千差万別。

その人の個別の症状があり、

それに合わせたリハビリがある。

いつ治るのかなんて誰にもわからない。

「どのくらいで治るのか」

という問いそのものがナンセンス。

 

治るかも知れないし、

一生治らないかも知れない。

 

なんとも心細く、あいまいな回答だ。

でもそれが“確かな”回答だった。

 

結論は出ていた。

「わからない」と。

それは受け入れるしかないのだろう。

だが、心で受け止めるには、少し時間が必要だった。

 

私の気持ちは揺らいでいた。

しかし、

それでも、リハビリはつづいた。

 

Yさんは一生懸命、右手を看てくれた。

Uさんは(余計なことを考えないように?)

『プリント』の宿題を大幅に増やしてくれた。

そしてHさんはその日も、

真冬なのに汗だくになりながら、

私の全体重を支えて一緒に歩いてくれた。

 

リハビリはつづいた。

毎日、休みなくつづいた。