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人生を懸けた“練習”

 

 

リハビリ、である。

 

そのころ、私はあらゆる機会を捉えて“リハビリ”に取り組んでいた。

 

いや“取り組む”、というとちょっとカッコよすぎるなぁ。

あらゆる機会をリハビリに“結びつけて”いた。

 

たとえば家の階段を上る、下りる。

それもリハビリ。

コンビニに買い物に行くことも

銀行の通帳記入もリハビリだ。

もちろん毎週金曜日『ひろの亭』に行くことも(笑)

 

訪問リハビリの先生たちに受ける“リハビリ”以外にも、生活のあらゆるところにその機会は存在している。

そう考えていた。

というか、今でも考えている。

 

ただ、それらはすべて“日常生活”のリハビリだ。

日常生活を不自由なく過ごしたい。

そのために「右半身麻痺をなんとかしたい」。

 

それはかすかに、ではあるものの功を奏していた。

かすかに、前よりよくなっている(と思う)

そう思いたいだけかも知れないけれど・・・

 

 

だが、私にはもうひとつの“リハビリ”があった。

 

失語症。

つまり“コトバ”のリハビリ。

 

これがやっかいだった。

 

 

右足の麻痺なら、左足がある。

左足を動かして右足をカバーする。

それに加えて“杖”もある。

だから“歩く”という機能は、なんとかなる。

たとえ右足が動かず、

ただ棒のように突っ立っているだけであっても、左足と杖でごまかせる。

 

右手もそうだ。

左手がある。

左手一本で歯も磨けるし、顔も洗える。

箸を使うことにも慣れてきた。

だから食事もできる。

そして何より左手で、キーボードに入力できる。

つまりPCが使える。

ということは“仕事”ができる。

 

だけど“コトバ”は、やっかいだった。

 

まず、“電話”が苦手だ。

 

相手の言ってることは理解できる。

だから何らかの答えを返そうとする。

そのとき、だ。

的確なコトバが、出てこない。

 

いや、“答え”はわかっている。

頭の中での“答え”は、明確に理解できている。

ただ、それがイメージできない。

 

・・・ん?

“イメージ”が“できない”・・・

 

“明確に理解”といった。

しかしそれは“コトバのイメージ”ではない。

コトバにならない、もっと原初的なもの。

直感・・・というか、なんというか。

 

問いがきて、それに答える。

その“答え”の感覚。

それは、わかる。

それだけは“明確”にわかっている。

だけどそれを“コトバ”に変換するイメージがない。

というか、イメージが頭の中に“湧いてこない”のだ。

 

わかってもらえるだろうか。

もらえないでしょうね。

私もそのへんの感覚、わからないのですから。

 

でも私は考えるんです。

もっと大きなことを。

もっと深刻なことを。

「失語症はコトバだけの問題なのか」

「文章にも影響があるのではないのか」と。

 

コトバが出てこない、ということは

“文章”も出てこない。

 

これは問題だった。

大きな、しかも深刻な問題だった。

 

はっきり言います。

ひと言で言います。

私は当時、自分を信じていいのか、わからなかった。

 

もう少し詳しく言えば“文章”を、

自分が“書くもの”を信じていいのか、わからなかった。

 

たしかに文章は書いていました。

まずは『文章のリハビリ』として、

このサイトに併設している『story』を、書いていました。

 

だけど、

読んでくださる人がいても、

私はそれを信じていいのか、わからなかった。

 

なぜか。

 

私が書く文章に、“私が”納得できなかったから。

 

 

だってそもそも“コトバ”を信用できないんですよ。

自分の発する“コトバ”を信用できない。

ていうか、コトバを発することが自由にはできない。

そんな男が“文章”を書くなんて。

ひとに読んでもらう“文章”を書くなんて。

“文章”に対する冒涜ではありませんかっ!

 

ふ〜

ま、落ち着こう。

 

でも大問題でした。

私にとっては大問題。

今でも大問題。

 

結局、私は、

退院後3年たった今でも“文章”が書けません。

 

いや、たとえばこのサイトに書く文章は書けるんです。

それは自由に書けるから。

 

取材をするわけでもなく、

ということは取材した相手の方に感じる重い責任もなく、

ただ私のなかからあふれてくる文章だから。

 

デイレクターのような発注者がいるわけでもなく、

だから締め切りもなく、

発注者に恥をかかせてしまうことも、ないから。

 

友人たちが勧める、たとえば『note』。

そこに書くのではなく、

自分で立ち上げたサイトに書く。

だって『note』に書くということは、

それはそれでオフィシャルなことだから。

少なくとも私は、そう思う。

自分のサイトならインフォーマルであり、

肩肘張らなくてもいい。

ミスがあっても、

使うコトバがヘンでも、

​間違っていても、許される(きっと)

 

でもなぜ、そういうかたちをとっているのか。

それは・・・スミマセン。

“練習”だから。

 

いや、ほんとにスミマセン。

失礼なことを言っています。

読んでくださる方がいるのに、まったくもって失礼。

だけど、やっぱり私にとっては“練習”なのです。

私は文章の“練習”をしているんです・・・

 

 

あ。

ちょっと話が逸れている?

そもそも今回のテーマってなんだっけ。

 

“リハビリ”。

 

そうです。

その意味ではそれほどズレていませんね。

もっと前に戻れば、『ツタブン』です。

復活のオファーに、なぜ「いいよ」と答えたのか。

そうです。

それが今回のテーマでした。

 

答えは簡単です。

 

人の文章を添削することで、もう一度、文章を学び直せる(かもしれない)

 

と同時に

 

添削する行為が、文章に関与する“脳”を刺激する(かもしれない)

 

つまり“練習”。

やはり“練習”。

しかし私にとっては“人生を懸けた”練習。

 

Nさんは、おそらく軽い気持ちでオファーを出した。

だけど私はけっこう“必死”だったのです。

 

『ツタブン』の復活は

私にとっては“ライターとしての将来を左右する”オファーだったのです。

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