“ひらがな”が、書けない

2016年(平成28年)11月26日。土曜日。

倒れた日の翌々日。

ベッドの周囲に4人の、白衣を着た人たちが集まった。

 

それが『日赤医療センター』で初めて思い出すシーンだ。

 

私はすでにベッドの上で上半身を起こしていた(と思う)。

いや違うかな。

とにかく私の身体にはたくさんの管。

点滴やら排尿やら、やたらたくさんのチューブがぶら下がった状態での“ご対面”である。

 

「これから私たちが岡さんのリハビリを担当します」

そのようなことを言われた気がする。

でも、明確には思い出せない。

 

(リハビリ・・・?)

(それってなに・・・?)

最初に思った。

 

(あ、そうか。おれの身体が動かなくなってる。それを治すために集められた先生なんだ・・・)

 

 

身体が動かなかった。

たとえば昨日。

朝起きて身体を起こそうとした。

私の感覚では右手も一緒に起き上がった。

だが、右手はそのままベッドの上に置かれたままだった。

 

(えっ?)

その光景を、私は不思議な感覚で受け止めた。

 

私は“自分の右手”に言った。

(おまえ、なんでこんなとこにいるの・・・)

 

わかってもらえるだろうか。

意識の中では右手は動いている。

いつも通りに動いている。

身体についてきてる。

だが・・・。

本当は動いていない。

右手は動いていない。

まったく、動いていない。

そのギャップがしばらくの間、つづいた。

 

そういえば聞いたことがある。

事故で腕や足を失った人が、

しかし意識のうえでは未だに「ある」と思う。

明確に「ある」と。

そう思うときがある・・・。

 

 

その日は簡単な検査が行われた。

 

“簡単な”と書いた。

でもそれは今、思い返すと、である。

当時の私にとって、それはけっして“簡単”ではなかった。

 

 

ベッドの上だった。

食事用の細いテーブルにA4の紙と鉛筆。

しっかりバインダーで留めてある。

 

求められたのは「“椅子”って書けますか」。

しかも「ひらがなで」。

 

(いす、ですよね)

言葉にはならなかった。

が、私は鉛筆をとった。

そして構えた。

鉛筆を、左手で。

 

「いす」

 

さて、書こう。

簡単じゃないか。

 

まずは「い」。

タテに線を書けばいい。

・・・って、おれはなにを考えているんだ?

 

考えなくても書ける(はずだ)。

なのに考えてる?

なにを?

「い」の書き方・・・?

 

そんなバカな・・・。

 

焦った。

 

まず、「い」という言葉を脳のなかでイメージする。

それができたら次にそのイメージを左手に伝える。

そうである。

利き腕の右手ではない。左手だ。

 

左手は、ゆっくりと反応する。

タテにまず1本。

しかも真ん中がすこし膨らむように・・・。

 

鉛筆を紙に着ける。

初めて毛筆を使う習字のようだ。

 

下へ1本。

タテに1本。

少し膨らむように。

 

よし、できた。

つづいて2本目。

これもタテに1本。

よーし。オッケー。

 

次は「す」。

これはちょっとむずかしい。

って、なにを考えているんだ、などと考えてるヒマはない。

真剣だ。

私は真剣に「す」と向き合っていた。

 

まずヨコに1本。それと交差するようにタテ。

そのままくるりと回して・・・。

 

ん?

 

なにかヘンだ。違和感がある。

あぁそうだ。左右が逆だ。

「す」の左側にあるはずの交差が、右側になってしまってる。

 

なんでだ。

 

「左手で書いてるからですね」

先生のひとりがいった。

笑顔である。

若い先生である。しかも美人。

「岡さんは右利きですよね。それを左で書く。すると逆になることがあるんです。気にしないでください」

 

【写真_01】(クリックしてください)

 

気にしないでください・・・?

 

はぁ。そうですか。

でも、気になります(と・・・声にはしていない)

 

「だいじょうぶ。一緒にリハビリしましょう」

 

まるで私の気持ちが聞こえたかのように先生は答えた。

 

「では次に名前を書いてください。ひらがなでいいですよ」

 

私はまず「お」を書いた。

おかたかしの、「お」。

気づいた。「す」と同じだ。

交差がある。

今度は間違えないぞ。

 

なんとか左側に交差を持ってきて「お」を書く。

よーし、できた。

と思ったらリハビリの先生が言うのだ。

「テンを書きましょう」

 

ん?

 

愕然とした。

 

自分では書けたつもりだった。

ただ、“点”が無かった。

「お」の右上の点。

言われるまで、気づかなかった。

 

私は照れ隠しにもう一度、「お」を書いた。

筆圧がほとんどない。

まっすぐなど書けない。

それでも書いた。

左手で書いた。

 

【写真_02】(クリックしてください)

 

鉛筆は時折り勝手な動きをする。

フニャフニャと予想外の無駄な動きをする。

その動きをなんとか抑えながら、「お」と「か」を書いた。

時間はずいぶん経っていた。

 

その日、私が書けたのは「おか」だけだった。

 

それは“簡単な検査”ではあったが、同時に“リハビリ”だった。

私は一回目のリハビリで、自分の今の状態を思い知った。