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​歯ブラシの“柄”

さて、実際の“階段”である。

 

リハビリ・ルームの階段で何度も練習を積んだ私は、いよいよ本番に臨む。

ビルの階段である。

病院の階段である。

 

リハビリ・ルームから、1階上の病棟まで。

先生に連れられて、私は階段に向かうドアまでやってきた。

ビルの“非常口”となるドアだ。

 

先生がドアを開ける。

かなり重そうである。

これをひとりの場合、自力で開けなくてはいけない。

 

ま、ムリだ。

ムリだろう・・・。

 

そんなことを考えているうちに

階段の踊り場に出る。

 

するとそこは別世界であった。

 

これまでは病棟とリハビリ・ルーム。

それがすべてだった。

あ、それにエレベーター。

それ以外のスペースに出たことはなかった。

 

いや一度、車椅子の時代に1階の売店に行ったことがある。

看護師さんに車椅子を押してもらって・・・。

ただ、売店に行ったのはそのときだけだ。

 

理由はふたつ。

ひとつは売店が「バリアフリーではなかった」こと。

 

フロアーから数段、階段を上らないと売店には入れなかった。

その“数段”が、

車椅子にとっては巨大な“壁”である。

よって私は看護師さんに、買ってもらうものを頼むことになる。

これがつらい。

 

看護師さんは忙しい中、

わざわざ売店まで私を連れて行ってくれる。

それだけでも申し訳ないのに、

さらに買い物まで頼む。

それが申し訳なくて・・・。

 

 

それともうひとつ。

買いたいものは2つあった。

ひとつは水。

ペットボトルの水。

“水”は何でも良かった。

水であればブランドは問わない。

そしてもうひとつは“歯ブラシ”。

 

看護師さんは

売店にあった数種類の歯ブラシを、

わざわざ持ってきて見せてくれた。

 

それぞれがブランドものの歯ブラシ。

だがそれを見た途端、

「ダメだ」と思った。

 

しかしそんな素振りはいっさい見せない。

看護師さんには満面の笑みで、

「これ、お願いします」。

 

こうして最初で最後の“買い物”は終わった。

 

 

歯ブラシには落胆した。

しかしその気持ちは抑え込んだ。

だって看護師さんのせいじゃないもの。

 

ではなぜ落胆したのか。

 

私は「柄が平らな歯ブラシ」を探していたのだ。

 

しかし売店の歯ブラシはすべて、柄が丸かった。

“人間工学“だかなんだか知らないが、

すべては“人が持ちやすいように”柄が丸い。

 

しかし私は「柄が平らな歯ブラシ」を探していた。

救急病院で使っていた歯ブラシは柄が“平ら”だった。

それをそのまま、リハビリ病院でも使っていた。

 

何のとりえもない、

何のブランドでもない歯ブラシだった。

だが、私にとってはこの上ない歯ブラシであった。

理由はただひとつ。

柄が平らだったから。

 

なぜか。

 

私は右手が使えない。

よって歯ブラシは左手で持つ。

うん。ま、当然のことだ。

 

じゃあ、歯磨き粉はどうする?

 

それも左手だ。

 

ということは、いったん歯ブラシを置いて、

左手で歯磨き粉を絞って歯ブラシに乗せる。

 

そのとき、柄が平らじゃないとどうなるか。

 

まったく安定しない。

よって歯磨き粉はうまく乗らないのだ。

 

柄が丸い歯ブラシを使うと、時間がかかる。

歯磨きそのものにも時間がかかるのに、

そのまえにも時間がかかる。

歯磨き粉を歯ブラシに乗せるだけで時間がかかる。

しかも歯磨き粉は何度も歯ブラシから落ちるから無駄に使う。

心の中は「キィーーー」である。

 

そこでみなさんにお願い。

「半身麻痺の人のお見舞いには柄が平らな歯ブラシを」

きっと喜ばれます(笑)。

いや、ほんとに。

 

以来、歯ブラシは銘柄指定で、

お見舞いに来る友人に買ってきてもらうことにしました。

 

 

 

さて本題に戻ろう。

 

“階段”である。

 

私はナマの階段に初めて挑戦した。

(ナマというのは練習用の階段ではなくて、一般の人が普通に使う階段のことです)

 

上りの階段である。

手すりを掴み、

まず左足を上げる。

つづいて右足をヨイショと。

 

できた。

そのまま数段、上っていく。

順調だ。

 

と、そのときである。

いきなり階段が騒がしくなった。

だれかが階上から下へ降りてくるのだ。

しかも2人。

どうやらリハビリの先生たちだった。

 

私に気づくと、2人は急におとなしくなり、道を空けてくれる。

H先生はすかさず、「そのまま通ってください」と。

 

そうなのだ。

階段は人の行き来がある。

その中を、私は上り、また下りなきゃいけない。

当たり前のことだが、その事実は私を動揺させた。

 

あぁ、そうか。

もう練習じゃないんだ。

これが社会復帰のための実践なんだ。

 

 

こうして実践的練習、

いやもっといえば“訓練”が始まった。

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