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​『原宿セントラルアパート』

 

 

私の仕事は変わった。

明らかに、変わった。

まずアポイントが取れ始める。

なぜだかわからないが、会ってもいいという社長が増えた。

​(今回も昔の話。1983年〜84年を思い出しています)

 

不思議だった。

 

社長の話が聞けた。

いろんな業種の、いろんな社長。

ナマの話が聞けた。

 

営業はしなかった。

いやもちろん全然しないということではない。

だがメインは話を聞くこと。

しかも深く、聞くこと。

つまり私の仕事は営業というより、“インタビュー”だった。

そしてインタビューが終わるころ、私はいつの間にか契約書をもらっていた。(ま、どれもがうまくいくとは限らないが・・・)

 

業績が上がり始めた。

マネージャーの言う“採用費”に見合う働きはできるようになった。

 

月間目標を達成した。

さらに1年を4つに分ける“クオーター”の目標も達成した。

その間、私は言いつづけた。

機会を見つけては言いつづけた。

「制作に異動させてください」と。

 

 

何度も言うが、私は営業のアルバイターである。

異動の希望なんて、口にするのもはばかられる。

当然だった。

しかし、リクルートは不思議な会社だった。

マネージャーは本気で私の要望を聞いてくれた。

社内では上司が「社員(アルバイトも含む)の要望を聞く」ことも、重要なこととされていた。

そのための面談も定期的にセットされていた。

 

従業員の“モチベーション”を上げること。

つねに上げつづけること。

それも責任者=マネージャーの務めだった。

 

私は運がよかった。

まずリクルートという会社に入れたこと。

そこで半年以上、売れない私を「飼って」くれたこと。

制作の怖い先輩がダメ出しをつづけてくれたこと・・・

 

 

1984年4月。

私は希望通り“制作”に異動となった。

同時に渋谷営業所から分かれた新たな拠点・原宿営業所に移った。

 

        ●

 

“リクルート・原宿営業所”

それは『原宿セントラルアパート』の一室にあった。

 

『原宿セントラルアパート』。

伝説のアパートである。

 

60年代から80年代半ばまで、

コピーライター・糸井重里やフォトグラファーの浅井愼平、“話の特集”編集長の矢崎泰久、イラストレーターの宇野亜喜良など、いわば日本を代表する文化人、クリエイターを輩出した。

 

いまは“東急プラザ表参道原宿”。

正式にはそう言うらしい。

しかし私にとっては“セントラルアパート”。

『原宿セントラルアパート』。

 

原宿営業所はその中にあった。

 

        ●

 

 

私は“制作ディレクター”として仕事を開始。

そう言うとカッコよさそうに思えるが、けっしてそうではない。

私は営業のときと同じように仕事はできず、ダサい存在だった。

しかしそんな私を、周囲が支えてくれた。

とくに同じ制作チームにいた3人の女性たちが、支えてくれた。

 

 

制作ディレクターとは広告制作の責任者である。

営業が上げてきた会社の広告をつくる。広告全体に責任を持つ。

コピーライター、デザイナー、カメラマン、ときにはイラストレーターなどを含めたチームをつくって、広告を完成させる。

それが仕事だ。

だから私はまだ“コピーライター”ではない。

 

「コピーを書かせてくれれば」という気持ちはあったが、封印していた。

プロの仕事を目の当たりにしたから・・・

 

“6人の会社”の広告で、私はプロを実感した。

「コピーを書きたい」と言っていた自分が恥ずかしかった。

 

        ●

 

 

そして再び、暑い夏の日がやってきた。

前年、私が営業した“6人の会社”の広告を、

今度は制作ディレクターとしてつくる。

そんな機会がやってきた。

私は去年と同じプロダクションに制作をお願いし、専属のコピーライターとともに取材を敢行した。

 

 

“2人の新入社員の現在の活躍ぶりを取材する”

 

企画はバッチリだった。

私はワクワクしながらその会社を訪れた。

なぜなら2人は私の仕事の明確な成果であり、求人広告の真の意味での“効果”だったからだ。

 

私はニコニコしながらその会社を訪れた。

同じようにニコニコしている社長に会い、感謝の言葉をかけてもらった。

つづいて2人の新人が登場する。

名刺を交換する。

 

と、そのときだった。

 

名刺には名前が書いてあった。

その横には会社の名前が・・・

わずか6人の(いや新入社員2名が加わったから8人の)会社の名前が・・・

 

その瞬間から私の身体は震え始めた。

ガタガタと震え始めた。

 

「おれはこの人の人生を変えてしまった」

 

 

取材のほとんどが頭に入ってこなかった。

それよりも、「この人の人生」。

 

社長に聞いていたのは「2人、採れたよ」「しかも早稲田と学習院だよ」と。

それは“記号”であった。

私は“記号”に感動し、“記号”を社内で共有した。

しかし1年後、目の前にいたのは生身の人間であった。

呼吸をし、鼓動を打ち、夢を語る若者だった。

 

もし私がこの会社に出会わなかったら・・・

もし私がこの会社の求人広告に関わらなかったら・・・

もし求人広告が、リクルートブックに掲載されなかったら・・・

この人たちは、まったく違った人生を歩んでいる。

 

怖くなった。

この仕事が怖くなった。

求人広告をつくる仕事が、怖くなった。

だけど営業が契約をいただいてくれば、広告をつくらなきゃいけない・・・

 

        ●

 

誠実であろうとした。

ひとつひとつの広告に誠実であろう。

真面目に取り組もう。

ホントを書こう。

絶対にウソは書かない。

そして学生に選択肢のひとつを提示しよう。

そう思った。

 

だが、その気持ちがあるとき揺らぎはじめる。

その原因となったのは一冊の本。

沢木耕太郎の『地の漂流者たち』(文春文庫)であった。

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