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“現実”に、慣れてください

オフィスビルのエントランス。

そこには多くの場合、ロビーがある。

 

“セイファート”が入るビルにもロビー。

だがその前に、

つまりロビーにたどり着く前に、

 “階段”があるのだ。

数えてみると7段。

 

たいした数ではない。

以前なら簡単に駆け上がってもいた。

もちろん社員のみんなも普段、気にもせずに上っているだろう。

しかし・・・

 

私にとっては恐怖。

“壁”だった。

 

 

階段はかなり早い段階で“克服”していた。

病院内の階段、

外の階段、歩道橋の階段・・・

だが、それらの階段にはすべて

“手すり”があった。

しかし、

なんと、

その階段には“手すり”がないのだ。

 

 

「ほかに(入り口は)ないですか?」

Hさんは聞いた。

 

私は答えた。

「あります」

 

確かにそう答えた。

だがそのウラには伝えたい事実があったのだが・・・

(地下1階があります。ただし、そこまではスロープで下りなければなりません。しかもそのスロープが、かなり急なのです。だからどちらかと言うと階段の方が、私としてはうれしいのですが)

・・・なんて、細かな表現はできない。

 

「どこですか?」

「ち、地下、です」

「じゃ行きましょう」

 

Hさんは“手すりのない階段に挑む”なんて冒険を許してはくれなかった。

 

 

地下につづくスロープの入り口に到着する。

しかも下りのスロープ・・・

 

ヤバい。

やっぱり急だ。

というか、かなり急だ。

 

Hさんも少々たじろぐ。

「ゆっくり下りましょう」

(はい。もちろんです。てゆーか、階段には戻らないんですね)

 

私はなんとかスロープを下りた。

もちろんHさんの助けを借りながら。

 

「どっちにしても大変ですね」

Hさんの素直な感想だった。

 

私は考えた。

この、最後のピースを乗り越えなければ会社には到達できない。

 

しかし、

それにしても試練がたくさんある。

出社するにはまずバスの優先席。

乗降口の上り下り。

山手線のホーム。

複数のエスカレーター。

そして最後は“会社に入るための壁”

=手すりのない階段、または急な下りのスロープ・・・

 

考えた結果、私は決めた。

電車ではなく、バスにしよう。

そうすれば山手線のホームと

エスカレーターという試練がなくなる。

それに最後の“壁”は階段にする。

やっぱりスロープは怖い・・・

そんなことを考えながら、

地下1階のエレベーターの前に到着した。

 

そういえば、エレベーターはどうだろう。

​エレベーターにも危険はあるのか・・・

扉が開く。

フラットな入り口を通る。

左手で行先階のボタンを押す。

扉が閉まる。

問題はなかった。

 

私とHさんは2階に着いた。

受付は内線電話である。

総務人事部を呼び出す。

Fさんが迎えに出てきてくれる。

ようやく、私は社内に入った。

 

Fさんは笑顔である。

長谷川社長も笑顔。

ふたりは何度もお見舞いに来てくれている。

 

そして、

ウワサを聞きつけた社員が集まってくる。

 

じつは、その日は火曜日だった。

間の悪いことに火曜日。

私はそれに気づかなかった。

 

火曜日。

それは社員が社内にいる日だ。

理由は「美容室がお休み」だから。

 

セイファートの主な取引先。

それは“美容室”である。

その多くが“火曜日はお休み”。

ということは・・・

“営業”社員は外回りができず社内にいる。

 

会社の入り口は一気に賑やかになる。

もちろん、私も笑顔になる。

だが・・・

私の予想が当たった。

 

集まってくれた社員は、みな笑顔である。

が、それは、どこか凍り付いたような笑顔なのだ。

表情は、みんな笑っている。

だが、その目は笑ってはいない。

むしろおびえている、

というか・・・

なんかどこか死人を見るような・・・

 

 

前回、私は書いた。

・・・お見舞いに来てくれた人は、その“準備”を私と共有している。右半身麻痺と失語症という現実と、一緒に向き合ってくれる。だけど会社の人たちの多くは、その“準備”をしていない。だから私は「会う」のが怖い・・・

 

 

ほんの半年前まで、

いつもバカばっかり言ってた問題児、

いや問題オヤジがいま、

右半身麻痺で杖ついて、ヨロヨロしてる。

しかもコトバがうまくしゃべれず、

ただただニコニコしている。

 

その姿をみんなどう見たか。

 

 

ま、私だったら対応に困る。

どう接していいのかわからない。

わからないまま“現実”が飛び込んでくる。

しかも会社に、飛び込んでくる。

さて、どうしたものか・・・

 

 

慣れればいい。

そう思う。

思うしかない。

 

突然の“現実”に慣れていく。

慣れてください。

それしかない。

 

ただ私は思うだろう。

​客観的に今の“私”を見たら

「この人は、終わったな」と。

それが素直な思いだ。

きっと、そうだ。

 

 

初めて会社に行った。

入院後、初めての会社だ。

つまり私にとっては初めての“現実”。

 

これまではリハビリの先生方、

看護師や医師、

それからお見舞いの人。

それがすべてだった。

この半年、

それ以外の“視線”には、さらされてこなかった。

 

今まで知らなかった“現実”。

見ようとしてこなかった“現実”。

それがいま、私の目の前にある。

 

 

会社の人々の感情

戸惑い

好奇の視線

病気ってこわいなという怖れ

どう変わるかわからない人生

一瞬で変わる人生設計

それぞれの生き方をもう一度見直す契機

それから諦観のようなもの・・・

などがごちゃ混ぜになって突きつけられている社員のみなさん。

 

私の存在そのものが、

迷惑をかけてるという実感。

 

さらに私のなかには焦燥感や劣等感、そして無力感・・・

 

いや、ほんとうは

どこかに“高揚感”もあった。

寝たきりから車椅子を経て、

まがりなりにも自力で歩けるようになった。

その姿を見てほしい。

そんな高揚感・・・

 

だが“現実”の前で、

その気持ちは急速にしぼんでいくのだった。

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