障害者は“被害者”なのか

入院後、バスに初めて乗ったとき、

私は“優先席”を探した。

“優先席”に座るべきだと思った。

座らないと私は乗客全員に迷惑をかけてしまう・・・

 

それはなぜか。

 

病気になる前の私は、“優先席”に座らなかった。

ここは高齢者、あるいは障害をもった方々の席だ。

だから私は座らない。

シンプルにそう思っていた。

 

どんなに空いていても、

あるいは満席で“優先席”だけが空いていても、

​しかもその場に高齢者や障害者がいなくても、

絶対に“優先席”には座らない。

それは私の強い意志だったし、流儀でもあった。

だから・・・

逆に私が障害者になったら、「座るべきだ」と・・・

そう思ったのではないか。

 

う〜ん。

ほぼ合ってる。

でもなんか違う。

だったら「座らせてください」でもいいのではないか。

 

 

また「乗客全員に迷惑をかけるから」という理由もよくわかる。

実際、杖をついた私の不安定な身体は、

バスのちょっとした揺れにも負けてしまう。

ましてバスのなかで“転倒”でもしようものなら大迷惑だ。

 

だから「座るべき」?

 

いや、やはり「座らせてください」である。

それでいい。

その方が自然だ。

 

じゃあ「座るべき」と考えたのはなぜだろう。

 

 

わからなかった。

 

私はどうでもいいことにこだわってる?

「座るべき」でも、「座らせてください」でもいいじゃないか・・・

 

そんな声は・・・聞こえなかった。

 

私はこだわった。

私が「座るべき」だ、と思ったことに。

 

いったいなぜ私は「座るべき」だと思ったのだろう。

 

 

もう一度、バスのなかの私を思い出してみる。

目を閉じて思い出す。

すると「座るべき」だと言った私のようすや

雰囲気がなんとなくわかってくる。

 

 

バスに乗った。

いや“乗れた”。

次のミッションは、席に座ることだ。

 

私は“優先席”を探した。

“優先席”しか目に入らなかった。

空きを見つけるや、

私は一直線にそこへ向かった。

だれもその空きには座らせないぞ、と・・・

 

 

そうだ。

そうなのだ。

私は空きの“優先席”が見つかると、

そこが「用意された私の席」であるかのようにそこへ向かった。

だれにも譲ったりしないぞ。

これは私の席なんだ、とでもいうように・・・

 

 

感じ悪っ。

 

 

おそらく私はそのとき、

必死の形相で席に向かっていったと思う。

けっして速くはない、

というか不自由な足を半歩ずつずらすようにしながら、席に向かったのだった。

こころのなかでは、「私がその席に座るべきだ!」と思いながら・・・

 

やはり、感じ悪っ。

 

でもそれが私だった。

 

そんなヤツだったのか。

この場面を思い出すたびに消え入りそうになる。

 

 

私は退院してからも、

なぜ「座るべき」だと思ったのか、

という疑問に答えられずにいた。

 

だけどつい最近、

「もしかして・・・」という心理に出会った。

それはウェブ版の毎日新聞で見つけた

“片田珠美さん”という精神科医の文章だ。

 

―――問題は、被害者意識が強くなるほど、他人への攻撃を正当化しやすいことだ。これは、「自分がこんなにつらい思いをしてきたのは不公平だ。損害賠償請求をしたいくらいで、普通の人が遠慮するようなことでも実行する権利が自分にはあるはずだ」という心理が働くためである。

(片田珠美「自己保身社会の現実」より引用・以下も同様)

 

この文章は、最近の社会における“迷惑”や

“過激”な人たちの挙動を心理学の面から解き明かす。

テーマは「他人への攻撃がいかに正当化されるか」。

そのなかに、

私は“被害者意識”という言葉を発見したのだ。

 

もしかすると私は

どこかに“被害者意識”を持ってはいないか。

 

―――こうした心理が人一倍強い人を、精神分析家のジークムント・フロイトは〈例外者〉と呼んだ。〈例外者〉とは、自分には「例外を要求する権利がある」という思いが確信にまで強まっているタイプである。

 

―――被害者意識が強いほど、「自分はこんなに不利益をこうむり、大変な目に遭っているのだから、これくらいは許されてもいいはずだ」と考え、自分が例外的な特権を要求することを正当化する。

 

―――「被害者なのだから許される」という「裏返しの特権意識」も芽生えやすい。

 

あぁ・・・

どこか似ている。

私に似ている。

 

でも、私は

自分が“被害者”だとは

いっさい思っていなかった。