「ありがとう」は負債になる

“被害者意識”を、

私は持っているのか。

 

すこし考えてみる。

 

私は「不利益をこうむり」

「大変な目に遭っている」のだろうか・・・

 

否、である。

 

私は“被害者”なんかじゃない。

 

じゃあ逆に聞くが、

誰が私に“不利益”を与えたというのだ。

誰のせいで「大変な目に遭っている」のか。

 

そんな人、誰一人いない。

強いて挙げれば“病気”。

だけどその原因はわからない。

ただ、少なくとも“他人”ではない。

煎じ詰めれば“自分”。

原因があるとすれば、そこだ。

 

不規則な生活。大量の飲酒。

高血圧の放置。そして自己過信・・・

原因を“自分”に求める人に、

“被害者意識”はない。

 

と、思った。

しかし・・・

 

もう少し考えてみる。

 

しかし・・・

私は“優先席”に座ろうと思った。

“座るべき”だと思った。

それはどこかに“許される”という気持ちがなかったか。

どこかに“特権意識”はなかったのか。

精神科の片田先生が言う

“例外者”になっていなかったか。

 

私は“自分”と向き合った。

弱った“脳”ではあったが、向き合ってみた。

自分を防御するさまざまな論理と向き合った。

すべての言い訳を無視していく。

私を守るいわば“鎧”を

1枚ずつはがしていく。

そうしてむき出しになった“自分”に、あらためて問うた。

 

「被害者意識は、あったのか」

 

 

あった。

 

だが、それは“他人”からの被害者意識ではなかった。

“社会”からの被害者意識でもなかった。

だけど、私には厳然とした“被害者意識”があった。

 

人でも社会でもない。

どこにも加害者がいない。

だからほんとうは“被害”者ではない。

 

でも私は“例外者”であり、

“特権意識”もある。

 

その答えを、私はようやく見つけた。

なんとなくだが、こうではないかと考えた。

 

被害者“意識”である。

 

加害者のいない、被害者“意識”。

それが私を感じ悪くしている。

 

「私がその席に座るべきだ!」と、

どこかで威張って主張させる。

つまり、

ほんとうは自分が“被害”を受けてはいないのに、“意識”がそうさせるのではないか。

 

そう思うと精神科医・片田先生の言葉がますます心に迫ってくる。

 

―――被害者意識が強いほど、「自分はこんなに不利益をこうむり、大変な目に遭っているのだから、これくらいは許されてもいいはずだ」と考え、自分が例外的な特権を要求することを正当化する。

 

そうだ。

だがその被害者意識は、明確な加害者がいない。

“意識”のみに過ぎない。

私もそうだし、

社会の多くの“過激な人”も、実はそうなのではないか・・・

 

 

すーっと力が抜けた。

 

意識ならば変えられる。

だって“加害者がいない”のだ。

要は自分の意識が“被害者ぶってる”だけなのだ。

それさえわかれば、あとは自分の“精神”の問題だ。

心構えの問題だ。

きっとなんとかなる。

 

 

さて、次。

“世の中との蜜月時代”について。

 

今度は逆だ。

 

被害者意識が世の中と対峙する心理だったのとは逆に、

私は退院して半年あまり、何が起こっても“笑顔”だった。

バスで“優先席”を探すときは確かに「座るべき」だと思っていたが、

その他のシーンでは“笑顔”。

こころのなかでは「ありがとう」。

たとえ優先席を健常者に占領されても“笑顔”である。

「ま、いいか」である。

 

しかし2018年の初めごろから

すこしずつ変化を感じていた。

 

ほんとのところ、このまま“笑顔”のみの自分がつづいてくれればいいな、と思っていた。

そうすれば、少なくとも私はこの世で生きていける。

こんな身体になっても、世の中の人は生かしてくれる(だろう)。

 

だが、そうは問屋が卸さなかった。

 

さすがに世の中、

“笑顔”だけで過ごすことはできなかった。

 

生きていると、

どうしても「えぇっ?」とか、

「なんで?」とかいう出来事に遭遇する。

その感情が、私のなかで澱のように溜まっていく。

そこに、前々回書いた“吉藤オリィ”さんの言葉が重なる。

 

・・・(要約)「ありがとう」は人にとって「支出」であり、ほかの人から感謝をされない=「収入」がないと「借金」が重くのしかかる。つまり「ありがとう」は、言い過ぎると「負債」になる・・・。

 

(もちろん吉藤さんの言葉はつい最近知ったので後付けだが、当時の私の感情をものの見事に表現している)

 

“笑顔”の私。

「ありがとう」を言い過ぎた私。

それがいつしか「いつもすみません」

「申し訳ありません」に変わっていった私。

 

―――この状態が続くと、社会や世間に対して申し訳ないという気持ちが強まり、「社会の役に立っていない自分が、他人の世話を受けて生きていても仕方がない」という思考に至ってしまう。

(吉藤オリィ著『サイボーグ時代』より)

 

その寸前で、私は踏みとどまった。