脳が
どこかに・・・
『ツタブン』は地下に潜った
彼らが書いた「やかん」は、今でも私のPCに残っている。
それぞれ個性にあふれた“作品”群だ。
この「extra」を書くために、久しぶりに読んだ。
6人分。
笑った。
おもわず笑ってしまった。
おもしろい。
たとえば
今はやかんの時代である!
と、書き出した男子がいる。
「やかん」にオタクはいるのだろうか。
と、考察を始める女子もいる。
で、これだ。
「中で即席ラーメンをつくられたヤカンは、すでに鍋なのではないのか?」
九州・福岡の彼だ。
自由である。
みんな勝手に発想を飛ばしている。
しかもその“作品”には、“添削”の跡がない。
つまり私の手がいっさい入っていない。
むしろ“添削”など拒否する。
それくらいおもしろかったのだ。
こうして『ツタブン』のもとが、生まれた。
もと、である。
基盤である。
まだこの先、どうなるかわからない。
もちろん『ツタブン』という名前も浮上していない。
『ツタブン』が晴れて表に出てくるのはそれから4年(?)後。
2008年か、2009年。
おそらくそのどちらか(と、当時の受講生が証言してくれた)に、正式な会社の行事として認められたことがある。
それはコピーライター向けではない。
ふつうの社員だ。
営業も総務も、広報も参加する。
そのとき、私は初めて『伝わる文章研究会』という名称を使った。
略して『ツタブン』。
よって事務局はそのメンバーを『ツタブン』1期生と呼ぶ。
(あ、事務局といっても私ひとりだが)
ただ、それから去年まで。
つまり2019年までの約10年間、『ツタブン』は地下に潜る。
その間、私の病気もあった。
“脳”の病気である。
私も、そして周囲も初めての体験だった。
たとえば右半身は麻痺してる。
それはだれにでもわかる。
だから歩くときは杖をつく。
周囲は“腫れ物に触るように”気を遣ってくれる。
たまに私は思う。
「みじめな姿だなぁ」
とくに晴れた日。
街を歩いていて、ちょうど身体の後ろに陽があるとき。
相変わらず視界は前方1・5メートル。
目の前には自分の影がのびる。
その姿に思うのだ。
「みじめだなぁ」と。
いやふだんは思わない。
そんなヒマ、ない。
たとえば鏡に映る姿では思わない。
なぜなら私が動いていないからだ。
動いていないと、“みじめさ”は自分に伝わらない。
鏡に映る姿を見るのは、止まって佇んでいる時だけだ。
ぎこちない身体の動きは見えないし、わからない。
だから伝わらない。
逆に動いている時も、そんなヒマはない。
つねに前方1・5メートルの視界で、懸命に歩かなくてはならない。
じゃないとバランスを崩して倒れてしまう。
“転倒”。
それが怖い。
でも影は、
自分が動いているそのままの姿を忠実に映す。
1・5メートルの視界に、影はそのまま入ってくる。
その姿を見て、はじめて思うのだ。
「オレって相当ヘンなかっこうをしてる」
でも・・・
曲がりなりにも歩けるようになったのだ。
歩き方が“ヘン”だとしても、オレは歩ける。
そうだ。歩ける。
それがどんなにうれしいことか。
一方、周囲も見ている。
最初は寝たきりだった。
それが介護付きの車椅子で移動できた。
それから介護なしの“ひとり車椅子”。
やがて車椅子を離れ、杖での歩行に“昇格”。
それなりに段階を踏んでここまできた。
何度かお見舞いに来てくれたひとは、そのすべてを見ている。
だから周囲の人もよろこんでくれる。
「だって岡さん、歩けるじゃない」
うん。
ただ、周囲の人にはわからないことがあった。
“脳”のようす。
もちろん、私にもわからない。
“脳”はいったいどうなっているのか。
それはもしかすると医者にも、リハビリの先生方にも、わからなかった。
「岡はほんとに復帰したのか」
「ライターとして、文章が書けるのか」
それを確かめるべく、
まずセイファートのFさんが動いた。
まだ私がリハビリテーション病院に入院していたころ。
当時、総務人事部長だった彼女は、私に「会社案内のリライト」を依頼した。
一方、退院後の私を“試した”人がいる。
セイファートの本社営業部、リーダーの中山さん。
彼はなぜか『ツタブン』復活を企んだ。
10年ぶりの復活、だった。