脳が
どこかに・・・
たどり着いた“断念”
1987年6月。
私はオーストラリアにいた。
正確にいうとオーストラリアとニュージーランド。
その両国を往復しながら約1カ月間、滞在していた。
目的は第1回ラグビー・ワールドカップを“取材”すること。
ライターになって丸2年。
求人広告のコピーライターとしては順調だった。
仕事はたくさん舞い込んだ。
私はそのすべてに“事実”を求めた。現場の“取材”を求めた。
それが読者である大学生に“誠実”な仕事だと思ってきた。
だが、その“事実”が揺らいだ。
“誠実”さに、疑問が芽生えた。
果たして私はこのまま書いていていいのか。
いや、書けるのか。
求人広告のコピーライターをつづけることに迷いがあった。
私は半ば逃げるように、オーストラリアへ向かった。
日本で八方手を尽くしてくれた友人。
そのおかげで私には、決勝戦に限って“記者証”が与えられた。
ワールドカップの決勝戦。その“記者証”である。
大会本部に赴くと、すでに私の名前は登録されていた。
唯一、現地での確認が
「あなたはフォトグラファーか、それともリポーターか?」
英語で聞かれる。
なんとか聞き取った私は答えた。
「Both!」
ま、今では考えられない。
去年(2019年)、日本で“ラグビー・ワールドカップ”が行われた。
その盛り上がりは、多くの人の記憶に残っているだろう。
“ラグビー・ワールドカップ”は世界のビッグイベント。
しかし当時はまだ、注目度が低かった。
「Both!」
(両方)
つまり
「私はフォトグラファーであり、リポーターでもある」
係の女性はちょっと困ったように言葉を詰まらせたが、了解してくれた。
その場で写真を撮られ、
ハガキ大の黄色い紙に写真を貼り付けてパウチで仕上げる。
私の記者証(取材パス)は約10分で完成した。
これで私は第1回ラグビー・ワールドカップの決勝戦なら“どこへでも行けるフリーパス”を得たのだ。
●
試合後、私は記者会見場にいた。
正面には優勝したニュージーランドのキャプテン。
会見場は記者たちで満員である。
まさに世界中のラグビー・ジャーナリストが集まっていた。
記者会見が始まった。
何人ものジャーナリストが質問し、キャプテンが答える。
しかし私はひとり、蚊帳の外だった。
英語が、わからないのだ。
記者会見は終わった。
私は呆然としながら椅子に座っていた。
何もできなかった。
せっかくこの場にいながら、何ひとつできなかった。
ジャーナリストたちは、さっそく原稿を書いている。
手書きの人もいるが、ほとんどがタイプライターだ。
(ワープロもパソコンも、まだ浸透していなかった)
たとえば老紳士がタイプを打つ。指一本で打つ。その姿がカッコよかった。
私はその姿を飽きずに眺めていた。
何もできない私を嘲り、罵りながら、眺めていた・・・
「この人たちはいったいどんな文章を書いているのだろう」
それぞれ国に帰れば著名なジャーナリストなのだろう。
たとえばラグビーの母国・英国のジャーナリストは・・・
優勝国・ニュージーランドは・・・
決勝で敗れたフランスは・・・
それぞれが母国の代表チームを中心に記事を書いているだろう。
たとえばうれしい。悔しい。あの国には負けたくなかった・・・
あ。
私は気づいた。
そうか。
ジャーナリストは記事を書く。
試合のようすを書く。
印象も書く。
試合の結果も書く。
記者会見の結果も書く。
みな同じものを見ている。
世界中のジャーナリストが、同じ試合を見ている。
だけどきっと同じ記事にはならない。
ひるがえって私。
私は会社のことを書く。
取材して“事実”を書く。
だけど同じ会社のことを別のライターが書くとすれば、全く違う原稿を書くだろう。
それでいいのではないか。
というか、
それが当たり前じゃないのか。
“つかないウソ”もあるだろう。
だけど文章で、会社のすべてを表現しようなんて不可能だ。
それを“可能だ”と考えること自体、傲慢じゃないか・・・
●
“断念”である。
私は人生のなかで初めて、明確な“断念”を意識した。
“事実”さえあれば、なんでも書けると思っていた。
取材して“事実”を獲得すれば書ける。
会社のすべてが書ける。
そう思っていた。
学生は、私の書いた“事実”をもとに会社選びをする。
それでいい、と思っていた。
それこそ学生に対する“誠実さ”だと思っていた。
しかしそれがたった一言で“逆襲”される。
“つかないウソ”
私は果たして“誠実”だったのか。
誤魔化してはいなかったのか。
求人広告として“ここは書かない”という場面は、なかったのか。
“これは書けない”と思ったことはないのか・・・
次から次へと疑問が湧いてくる。
そのほとんどが自虐的であり、自責の念ばかり。
だが、そんななかで唯一残ったものがある。
それはやはり“事実”だった。
100人の社員がいれば100通りの仕事がある。
取材をするのは、そのなかのひとりの社員。あるいは社長。それを私は書く。
1/100の“事実”を書く。
それは会社のすべてではない。
だけどその会社の“事実”ではある。
ひとつの“事実”ではある。
たとえ1/100だとしても、
その“事実”は紛れもなくその“会社”のものだ。
その“事実”を、
会社選びの“ひとつの材料”として提示する。
スポーツ・ジャーナリストだってそうだ。
100人の記者がいれば、100通りの文章ができる。
同じゲームでも100通りの見方があって、100通りのインタビューがある。
そしてその“違い”こそ、ジャーナリストが競い合う“戦場”なのだ。
●
“断念”である。
“絶望”ではなく、“断念”。
つまり“あきらめる”こと。
そこから、すべては始まる。
「もとより文章で、会社のすべてを描くなんて不可能なのだ。それを可能だと思うこと自体、傲慢なのだ」
そう・・・私は“傲慢”だった。
だけど“断念”は、私の生き方を変えた。
もっと取材をたのしみたいし、もっと人をおもしろがりたい。
そして何があってもおおらかにいこう。
切羽詰まった原稿よりも
肩の力を抜いた原稿を書きたい。
肩の力を抜いた私でありたい・・・
1987年。
私は、ようやく出発点に立った。
29歳。
ライターになって2年。
“ライター見習い”のような日々を始めてからは4年半。
言ってみれば
私はようやく“3年以上”の日々を過ごしたことになる。
「ライター募集。経験3年以上」
その意味が少しだけ、わかった気がした。
『extra』の『extra』
2020年11月24日。
私は4度目の、その日を迎えた。
2016年11月24日。午前9時半すぎ。
私の脳は、壊れた。
以来、丸4年。
もう4年。まだ4年。
脳出血の5年生存率は57.9%。
そんなデータがあった。
いま4年。あと1年。
私はあと1年で、57.9%の生存率に到達する。
生きていれば、であるが・・・
右半身麻痺は相変わらず。
言語もうまくしゃべれない。
ただ、右手の肩が少しだけ、動くようになった。
そして『ツタブン』の主宰。
そういえば会社では4階に席を設けられた。
最近のことである。
4階。それはセイファートの営業部の階。
そのど真ん中に座れ、と。
みんな若く、活気に満ちていて、刺激的である。
そのなかでどんな私になれるのか。
どんな私が生まれるのか。
あらたな挑戦が、はじまる。