​“添削”を受け付けない

 

 

3期生の添削が始まった。

 

対象メンバーは5人。

その中に“ニチゲイのブンゲイ”もいる。

 

みんなの原稿がメールで送られてくる。

全員がそろったところで、私は読み始める。

 

1度目は添削抜きで読む。

ひとりの読者として読む。

添削を意識するのは2度目以降だ。

 

その1度目のときから私は感じていた。

 

おもしろい。

 

“ニチゲイのブンゲイ”だけではない。

全員の文章がおもしろい。

全員がそれぞれの個性を出している。

 

正直、私は思った。

「添削するとこ、あるのか」

 

 

私は“添削者”である。

 

『ツタブン』参加者から“添削”を期待されている。

自分が書いた文章が、どう直されるのか。

参加者はまさに戦々恐々。

 

一方、その直しに参加者が納得できるか。

それも問われている。

つまり“添削者”の私も小心翼々。

 

「え〜」

「うそ〜」

「なんで〜」

そういう言葉を参加者が、発することがあってはならない。

 

と、思っている。

思ってはいるが、実際はみんな発しているのだろう。

「え〜」

「うそ〜」

「なんで〜」

 

ただ、みなさん“オトナ”である。

添削の感想を求めると、ただただ「ありがとうございます」。

個人的な不満は出てこない。

いっさい出さない。

だからホントのところはわからない。

 

ま、しょうがない。

だからみんなの“表向きの”感想を、私は信じるしかない。

 

ただ、私も努力する。

「え〜」

「うそ〜」

「なんで〜」

というコトバが出ないよう、努力する。

 

そう。

言ってみればこれは“勝負”だ。

メンバーと私との真剣勝負。

 

 

そして私にはもうひとつの“勝負”があった。

参加者には言ってない隠れた勝負。

それは“復帰”。

 

私はライターとして復帰できるか。

文章が書けるのか。

脳が弱っていても、書けるのか。

いやその前に、文章が読めるのか。

 

 

“文章が読めない”

その事実に気づいたのは入院中である。

 

短い文章なら読める。

『天声人語』などのコラムなら読める。

だが、それが限界だった。

せいぜい500〜600字。

病院に置いてある新聞も、複数の記事は読めない。

記事をひとつ読めば、もうお腹いっぱい。

 

“本”に挑戦したこともある。

友人がお見舞いに本を届けてくれた。

 “森博嗣”の新刊本。

うれしかった。

私は病気になる前、その友人の勧めで“森博嗣”を読んでいた。

複数の著作を読んでいた。

その世界にハマっていた。

だが・・・

最初の1ページで挫折した。

やはり頭に、

つまりは“脳”に、

文章は入ってこなかった。

 

 

退院してからもチャレンジした。

毎週金曜日の居酒屋で、本を開いた。

以前のように『ひろの亭』で文庫本を開いた。

入院中よりも少しだけ、読めた。

ただ、20ページがやっと。

それ以上は頭に入ってこない。

気が散ってしまうのだ。

そして一度散ったら最後、再び開く気にはなれない。

 

なんども試した。

すると気が散り始めるのは決まって20ページ前後。

どんな本でも20ページ。

不思議なことに、20ページ。

 

本への挑戦は、いったん休止してしまった。

それよりコトバ。

話すこと。

毎週金曜日の『ひろの亭』は、人と話す訓練。

そちらに興味は移ってしまった。

 

だから『ツタブン』は、それ以来のチャレンジ。

文章への挑戦。

再び文章に挑む。

その第一歩。

 

 

2期生はなんとかやり遂げた。

新入社員2名とNさん。

3名の添削を約半年かけてやり終えた。

 

3名とも“文章”が好きだった。

特に新入社員2名は、お互い競い合っていた。

2人とも途中から“小説”のような文章を書いてきた。

私は3名と一緒に“文章”を楽しんだ。

 

そして3期生。

人数は増えて5名。

その第1回の課題提出の、

1度目に読んだときに私は思ったのだ。

「添削するとこ、あるのか」

 

そのくらいみんなの文章はおもしろかった。

だが、2度目に読んだときから私の“添削魂”(?)に火が付く。

 

一文を短くしよう。

ここはこうした方が読みやすいよ。

この言葉、ここに移動させたらもっと伝わるよ。

でもこの言葉、いいねぇ。

かっこいい!

 

次々に湧いてくるのだ。

 

考えているのは2つ。

 

ひとつは「読みやすくする」こと。

もうひとつは「個性を消さない」こと。

 

“文章”は、あくまでもその人のものだ。

その人が書いたもの。

つまりオリジナル。

私の、

つまり“添削者”のものではない。

だから私は“オリジナリティー”を尊重する。

尊重しながら、読みやすくする。

それは2期生と3期生の添削で私が獲得した手法となった。

『ツタブン』独自の手法。

2期生でその萌芽を見つけ、

3期生で開花させた。

 

ではなぜ、その“手法”を確立することができたのか。

簡単である。

みんなの文章がおもしろかったからだ。

 

それぞれの文章を前にすると、私の存在など消し飛んでいった。

私の思惑や経験など、添削には必要なかった。

ましてや上から目線の指導なんかまったく要らなかった。

 

私が『ツタブン』から学んだことはただひとつ。

 

「みんな書けるじゃん」

 

だれもが文章は書ける。

私(添削者)がやることは、ちいさな手助けだ。

それでいい。

だってみんな、書けるじゃん。

 

その中に“ニチゲイのブンゲイ”もいた。

みんな書ける。

もちろん“ニチゲイのブンゲイ”も書ける。

 

だが、ひとつだけ、ちがいがあった。

 

たとえば“天才”がいる。

2000年にセイファートに入社してきた、当時23歳の彼女。

仮にKさんとしよう。

(Kさんに関してはこのウェブサイト『extra』の2話「ライターを、採用する?」に書いた)

 

Kさんの文章を初めて読んだとき、私は“天才”を感じた。

その文章は、あたかも屹立する高峰のように私に迫ってきた。

近寄ることもできない高峰。

圧倒的だった。

 

だが、“ニチゲイのブンゲイ”(仮にIさんと呼ぶ)の文章はちがった。

 

Iさんの文章は、周りに溶け込んでいた。

3期生に溶け込んでいた。

その文章、一見するとフツーである。

だれもが“名文”というような、

たとえばかっこいいフレーズがあるわけでもない。

むしろその文章は、

だれもが寝転がれる花畑のような、そんな親しみがあった。

だが、いざ添削をしようとすると・・・

受け付けないのだ。

文章が、私を受け付けてくれない。

 

それは不思議な感覚だった。