​“脳”が信用できない。

 

 

さて、ずいぶん回り道をしてしまった。

スミマセン。

もとのテーマは“文章”である。

『ツタブン』である。

戻りましょう。

 

私の“文章の治療法”。

人生を懸けた“練習”。

それは、『ツタブン』であった。

 

あ、そのまえにちょっと。

 

コロナの影響はすべてマイナス、ではなかった。

プラスもある。

その第1は、自分で考えるようになったこと。

 

たとえばリハビリ。

これまでは訪問リハビリの先生が家に来てくれていた。

退院後、約3年間、来てくれていた。

その間、私は考えることをやめてしまっていた。

週に3回、リハビリの先生がやってくる。

その事実が、私を思考停止状態にしていた。

 

先生がくるから、いいや。

プロに任せておけばいいんだ。

 

そうして3年もの間、私は任せた。

つまり自分で考えることをやめていた。

 

ところがコロナである。

感染が怖いので、訪問リハビリを遠慮することになった。

感染することより、私が感染させてしまうことを怖れた。

 

リハビリは、“自主トレ”になった。

その日からすべて自主トレ。

4月10日から、すべてが自主トレーニング。

否応なく私は考えるようになった。

 

まず、

体温と血圧、脈拍を測るようになった。

それまでは週3回、リハビリの先生が測ってくれていた。

それで十分だ、と思っていた。

それが毎日、朝と夜の2回。

しかもexcelデータとして今もPCに取り込んでいる。

 

と同時に、考えた。

 

いやもちろんその前も考えていなかったわけではない。

ただ、“考える”という考え方が変わった。

 

たとえば

この自主トレは、右肩を動かすためだ。

この自主トレは右手の拘縮を避けるため。

これは右足の長さを戻すためだ。

(右足は、左足と比べて3センチほど短くなってしまっている)

・・・とにかく自分で考える。

 

リハビリも自分で工夫する。

そういえば先生がこんなことを言ってた。

あんなことをしていた。

それを取り入れた。

自分でできるものだけに限ってだが。

 

右半身麻痺のリハビリだけではない。

 

しゃべることも“考える”。

“デンタルリフレクソロジー”も、

“声筋”のトレーニングもその一環だ。

 

そしていよいよ“文章”である。

 

とにかく文章を書いた。

毎日、書いた。

最初は『文章のリハビリ』。

これは当初“ひろの亭”のひろさんに読んでもらうために、書いた。

それが友人たちに読んでもらうようになり、

いつか“ひろの亭”の常連さんにまで広まった。

(それは今、本サイトの『story』に収まっている)

 

その間、私は疑心暗鬼に駆られていた。

いや、“駆られていた”のではなく、

今も“駆られている”。

 

それは“脳”。

 

やはり“脳”。

 

結局、私は“脳”を信用していない。

私の“脳”を、信用していない。

 

どんなに“脳”以外に原因を求めたとしても、

目詰まりの要因を“体力”や“筋肉”に求めたとしても、

結局は“脳”。

 

“脳”を信用できない。

 

たとえば“脳”は、以前のように文章を生み出してくれない。

流れるように、生み出してくれない。

 

あ。

いや、以前が“流れるように”であったか。

 

そんなことない。

ありっこない。

 

ただ、少なくとも今のような時間はかからなかった。

(と思う)

 

ひとつの例を挙げよう。

 

たとえば、ひとつのフレーズ。

ひとつの言い回し。

すべて一度立ち止まって、考えなくてはならない。

 

もっといい書き方がある。

あるはずだ。

さて、それは何だ。

 

考える。

 

もちろんそれは病気以前もあった。

ひんぱんに、考えた。

 

しかし、

それはいくつもの選択肢のなかから

最適なひとつの解を選ぶという“考える”だったように思う。

 

だが病気をした後の“脳”は

まず、“選択肢”を思い浮かべること。

そこから“考え”なくではならないのだ。

 

こんなこと、初めてだった。

まず選択肢を思い浮かべる?

しかもその選択肢が、なかなか出てこない。

ひとつも出てこない!

 

ひとつのフレーズ。

ひとつの言い回し。

こういうときには、こうしたほうがいい。

こう書くと、問題が起きそうな気がする。

だから別の言い回しはないか。

別のフレーズが、あるだろう。

 

でも、その“別の”という選択肢が出てこない。

ひとつも、出てこない。

 

焦る。

こんなはずじゃない。

こんなはずじゃなかった。

病気の前は、もっといくつもの選択肢があった。

頭の中に、

つまり“脳”のなかにあった。

でも・・・

 

それが、私の現実だった。

 

 

だから、『ツタブン』だった。

 

『ツタブン』は、自分で考える必要がない。

たとえば、ひとつのフレーズ。

ひとつの言い回し。

すべて参加者が考えてくれる。

私はそれを、“いい”とか

“よくない”とかの判断をする。

これなら私にもできた。

それどころか

“もっとこうしたほうがいい”と。

エラそうに、指摘したり。

 

ホントは自分のオリジナルが思いつかないのに・・・

いいフレーズも、いい言い回しも、

自分では思いつかないのに・・・

選択肢も、ひとつも考えられないのに・・・

 

他人が書いた文章の“良し悪し”はわかる。

わかってしまう。

 

だから『ツタブン』は、

私にとって格好の“リハビリ”となる。

 

具体的にどういう“リハビリ”になるのか。

それは、来週にします。