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​「ニチゲイの、ブンゲイ」?

 

 

「ツタブン、今年もやりませんか?」

 

Nさんであった。

私はNさんから再びオファーをもらうことになる。

2019年秋のことである。

 

今回、彼がそろえたのは新入社員ではなかった。

あ、ひとりは新入社員。

あとの3人はベテラン社員(?)

そしてNさん。

合計5名であった。

 

3期生である。

10年前を“1期生”とするなら、2018年の新入社員が“2期生”。

2019年は“3期生”。

 

3期生。

3人のベテラン社員は

編集スタッフ。編集長。それから営業企画のスタッフ(関西出身)。

1人の新入社員は、Nさんの新しい部下。

そしてNさん。

 

 

私はそのとき、じつは戸惑っていた。

いや、ほんとうのところ、びびっていた。

 

ベテラン社員のことはよく知っている。

編集スタッフは元・営業で、私はお客さんのサロンへ同行したこともある。

編集長は10数年前に新卒で入社してきた。当時は私も面接している。

営業企画のスタッフは、“関西ブランチ”で営業事務を長年務めていた。

出張の折には(特に飲み会)たいへんお世話になった。現在は東京勤務。

 

だから彼女たちとはどう接すればいいのか、わかっている。

(わかっていると思う)

 

問題は新入社員であった。

 

Nさんは電話で私に言った。

「ニチゲイの出身なんです」

 

私は聞き直した。

「えっ?」

 

Nさんは重ねて言った。

「ニチゲイです。しかもブンゲイです」

 

ニチゲイ。

つまり“日本大学藝術学部”。

ブンゲイ。

つまり“文芸学科”。

 

私は動揺を抑えて言った。

「あ、そう」

 

 

セイファートはつくづくおもしろい会社だと思った。

いろんな人が入社してくる。

ときには“日藝”出身者が入ってくる。

しかも新卒で・・・

 

 

日本大学藝術学部。

じつはその昔、私のもうひとつの志望校だった。

 

今から40数年前。

九州の田舎の高校で、私は2つの志望校をめざしていた。

“日藝”と、もう一校。

 

だが、“日藝”は受験しなかった。

受験料は当時も高く、ふたつの大学を併願するなどの贅沢は許されなかった。

もちろん「合格するわけない」とも思っていたが・・・

 

だけど、

いやだからこそ、“日藝”には憧れた。

“日藝”の放送学科。

 

私はもうひとつの志望校に合格した時、まっすぐにその大学の、あるサークルへと向かった。

 

『アナウンス研究会』

 

そうだ。

そうであった。

私は高校時代、アナウンサーをめざしていたのだった。

野球中継の“スポーツ実況アナウンサー”。

 

 

あ、スミマセン。

また脱線してますね。

 

戻します。

 

私はその後、“アナウンサー”への道をあきらめ、ライターになった。

あきらめたのは“単位”が足りなくなったからだ。

足りないどころではない。

結局、卒業もできなかった。

当然、放送局に入社することはできない。

それどころかどんな会社にも入社はできない。

というかそもそも会社に入社することなんて、ハナから考えていなかった。

 

 

私がライターをめざしたのは20歳のころ。

大学には行かず、

単位もまったくもらえず、

就職をあきらめたころ。

私はある作家と出会った。

いや直接会ったわけではない。

著書を通じて“出会った”。

作家というか、“ルポライター”。

 

『沢木耕太郎』

 

当時、この人の本は全部読んだ。

何度も読んだ。

こんなことを書きたい。

こんなふうに書いてみたい。

沢木さんは私の憧れであり、目標だった。

 

だけど、

私がライターへの道を歩き始めたのは25歳になってからである。

20歳から約5年。

その間、なにをやっていたのか・・・

じつは吉祥寺の“元禄寿司”でバイトを・・・

 

 

あ、スミマセン。

今度こそ戻します。

 

そんな私のもとに、“日藝”出身の新卒がやってくる。

しかも文芸学科。

“文章”を学ぶド真ん中である。

 

私はちょっと動揺した。

「自分に添削ができるだろうか」

 

だが、同時に思った。

「でもたのしみだなぁ」

 

そう。

どちらかというと私はわくわくしていた。

「最高峰の環境で学んだ人の文章を、私が添削する」

 

幸運だな。

私はそう思った。

「こんな機会めったにない。とゆーか、あり得ない」

 

Nさんには、ほんとうに感謝であった。

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